「水晶の向こう側」 (第12話 中)

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第12話 「3月・・・ガーター・ブルー」(中)

13 パーティー会場
金春にノエルたちのことを話した黒沢が、藍のところに戻ろうとしている。その後ろを、
サービスを終えた湊鼠が通っていく。その時、藍は恨めしげな顔でパーティー会場を
見渡していた。
「私は、パーティーに来ない方がよかったかしら」
さりげなくSILVER EYEが現れ、「心配しないで、パーティーに参加していてください」と
言って姿を消した後だった。
「また、画家さんにお世話になっちゃったわね」
そう呟いたところで、再び、後ろから声をかけられた。
「君、会ったことがなかったかな」
必死に笑顔を作って振り返る。
「は?」
相手は50代くらいの男性だった。黒沢とジャンルは違うが、そこそこの作家である。
「いつだったか、こんな感じの文壇のパーティーにいなかったかなぁ。違ってたら、ごめん。
コンパニオンさんじゃなかった?」
「ああ」、と藍の表情が自然な笑顔になる。
「以前、コンパニオンをしていましたから、その時にお目にかかったかもしれません」
「今は、何してるの? スーツを着てるけど」
「文壇絡みの仕事に、少しだけ足を突っ込んでいます」
素直に言葉が出る。
「編集かな? がんばってね。いつか、わたしもお世話になるかもしれないね」
「その時はよろしくお願いします」
作家は笑って手を振り、離れていった。黒沢が戻ってくる。
「会場から子供が出て行かなかったか、金春さんが聞いてくれるって。でも、あんまり
心配しない方がいいよ、藍ちゃん」
「ええ」
「んあ?」
黒沢がしげしげと藍の顔を見る。
「どーしたの? なんか、嫌なことといいことと、両方あったような顔してるけど」
藍は状況を忘れて吹き出した。
「正解よ、黒沢さん」
「なになに、何があったのよ」
「いい方だけ、教えてあげるわ」


14 厨房
とりあえずの出番が済んだ湊鼠がふてくされている。
「サービスに忙しくて、聞き耳立ててる暇もなかった」
自分が来井 円のすぐ後ろを歩いたことなど、知るよしもない。
「でも・・・いひっ。まだチャンスはあるぞ」
にたにた笑っているところを、チーフに呼ばれた。応接室にいくよう、言われる。
「この大事な時に、何の用だって言うんですかっ」
「それはこっちが聞きたい」
チーフは憤然と言う。
「忙しい時に、お偉いさんから呼び出しだ。理由(わけ)は俺も知らん。とっとと行って、
戻ってこい」


15 応接室
翔がSILVER EYEと携帯で話している。脇には彼が雇っている探偵がいる。
「お前もこのビルに来てるのか。そっちの始末は・・・一段落ついた? じゃあ、合流
するか。応接室はわかるか?」


16 通路
湊鼠が応接室に向かって歩いている。どう見ても客の、緑色のワンピースの少女と
子供用タキシードを着た男の子が佇んでいる。湊鼠は特に関心も持たず、2人の前を
通り過ぎた。


17 袋のねずみ
湊鼠は応接室のドアをノックした。
「*****です」
「どうぞ」
若い男性の声が応える。湊鼠は首を傾げながら入った。ピンクのワイシャツにスーツの
男性と、鰓の張った男性が立っている。どちらが返事をした方だろうと、湊鼠は考える。
「どうして呼ばれたんでしょうか」
「要注意人物の隔離さ」
ピンクのワイシャツの男性が答え、彼がさっきの返事をしたとわかる。湊鼠は「いひっ」と
笑いそうになり、それを押さえて聞き返す。
「要注意人物って・・・それって・・・」
「性懲りもなく、授賞式にもぐり込むからさ。この、湊鼠め」
湊鼠は怪訝な顔をする。SILVER EYEによって座談会参加もそれに連なる記憶も消され、
自分のハンドルネームさえ覚えていない彼だが、なんとなく翔の自分に対する悪感情は
感じ取った。
「まだ何もしていないらしくて助かったが・・・どうしてやるかな」
さりげなく、もう一人が湊鼠とドアの間に入ろうとする。本能的に恐怖を感じた湊鼠は奇声を
発しながら部屋の外に飛び出した。「時枝(ときえだ) 、追いかけろ!」という声を背後に人気の
ない通路を走る。角を曲がると、5メートル程先の通路の真ん中に小さな壁が・・・壁というには
あまりにも小さい壁が・・・・立ちふさがっていた。
「とまれっ、てをあげろ」
さっき見たタキシードの子供が、おもちゃの拳銃を両手で構えて湊鼠に狙いをつけている。
思わず湊鼠は立ち止まった。
「ほーるどあっぷ」
後ろから追手が2名、駆けてくる。我に返った湊鼠は再び走り出す。正面に立っている子供を
避(よ)けず、吹き飛ばそうという勢いである。子供まであと数歩というところで、少女の声が、
「やっていい、博君!」と叫んだ。おもちゃの弾が湊鼠に向かって発射される。音はしない。弾が
湊鼠の体に触れるか触れないかのうちに、彼の動きは止まり、床に崩れ落ちた。
「な・・・どうした?」
追いついた探偵・・・時枝・・・が屈んで湊鼠の様子を見る。気絶している。博の少し後ろ、
壁際に立っていたノエルは、その間に移動して今は博を守るように寄り添っている。翔は
ノエルと博を見つめた。博の手の中にある拳銃を見て、呆れたように言う。
「まさか、本当に撃たれたと思い込んで気絶したんじゃないよな」
角を曲がってSILVER EYEがやってきた。
「お前の仕業か、アビルージュ」
「僕は今、来たばかりですよ」
SILVER EYEはノエルと視線を合わせる。ノエルの、かすかに緑がかった瞳を見つめてから、
彼は言った。
「遅れて来て言うのもなんですが、ここは僕に任せてもらえませんか。ちょっと、この
お嬢さんと話しをさせてください」


18 パーティー会場
金春が、「ノエルと博らしい子供が、しばらく前に会場から出ていった」という情報を黒沢
たちに伝えて、また去っていった。金春も探しに出るつもりらしい。
「困ったことになったわね」
ブローチに触れてしまった指先を、さりげなくおしぼりで冷やしながら藍が言う。
「うん。もう、戻ってきてくれるといーんだけど」
黒沢はそう言いながら藍の動作を観察している。
「ところで藍ちゃん。指、どーしたの?」
「ちょっと、熱い物にさわっちゃったものだから」
「何に?」
「ほら、グラタンの入ってる器」
「なるほど。だいじょーぶ?」
「大したこと、ないわ」
そう言っているところに、翔が博を連れてやって来た。
「保護者のお2方、お探しの子供を引き渡しますよ」
「わおっ。博君、おかえり」
「どこに行ってたの?」
驚く黒沢と藍に、博は頭を下げる。
「ごめんなさい、くろさわさん、あいさん」
黒沢は「つかまえたー」と、博を肩車する。喜ぶ博。
「翔さん、改めてこんちゃ」
「こんにちは」
「あの、お仕事は? どーしてここに?」
「適当に理由をつけて出て来ました。たまには、俺がこんなことをしてもいいでしょう?
お忍びでお祝いに駆けつけたってことで、おめでとうございます」
「うへっ。ありがとうございます。それに、博君も連れてきてもらっちゃって。なんで、
こんなことに?」
「その子は、成り行きでね」
「翔さん、ノエルはどこ?」
挨拶も飛ばして、藍が食ってかかる。
「アビルージュと会ってる。小さな小さなレディのエスコートは、あいつに任せた」


19 屋上
人気のない屋上に、SILVER EYEとノエルがいた。2人して、柵越しに黒沢のマンション
方向を見ている。
「小さな小さなレディと、小さなナイトが活躍してくれたようですね」
SILVER EYEがさりげなく話しを切り出す。湊鼠は、時枝が医務室に運んでいった。
「それで、具体的にどういう風に動いてくれたわけですか、博君は」
「あの子は、悪くないんです。私が頼んだんだから」
「ノエルさんのことも博君も、叱る気はありませんよ。藍さんと黒沢さんに迷惑をかけた
人で、また、何かしそうだったんですから」
SILVER EYEはにこりと、ノエルに微笑みかける。ノエルはつられて笑う。笑いを納めて、
深呼吸して話しはじめる。
「おじさんにも、藍さんにも、さっきの人たちにも内緒ですけど」
「はい」
「博君、変わった力があるんです」
「どういう力?」
「忘れて欲しいことを、忘れさせることが出来るんです」
SILVER EYEは驚いた様子もなくうなづく。
「記憶操作ですね。何を忘れさせたんですか」
「来井 円っていう小説家のことを、全部。そうしたら、おじさんのことも、藍さんのことも
追いかけないでしょう? それから、本を読むのが好きだったことも」
「問題点を、大元から取ってしまいましたか」
「本当は、生まれてからの記憶全部、取り上げたかったけど、やり過ぎだと思ってそれは
やめました」
「さすがに、それはかわいそうですね」
鷹揚にうなづくSILVER EYE。
「これから先、また本を読むようになって、まかり間違って黒沢さんに関心を持つように
なるとしても、大分時間がかかりそうですね。それまでに、こちらの対策も、もっと充実
するでしょう」
「ですよねっ」
両方の拳を握りしめてノエルはうなづく。SILVER EYEはまた、くすりと笑う。
「そのために、博君と一緒に授賞式に来たわけですか。ごくろうさまでした」
ノエルは、照れたように微笑む。SILVER EYEは礼儀正しくノエルの手を取った。
「会場に戻りましょう。博君はフィリアスに任せましたけど、藍さんたちはノエルさんのことも
心配していますよ。それに、お腹も空いますよね?」
「はいっ」
仲良く、出入り口に向かう。SILVER EYEは何気なく言った。
「ノエルさん、まだ話してないことがあるんじゃないですか?」
ノエルは黙ってSILVER EYEを見返す。
「黙ってると、あるんだなって思ってしまいますけどね」
「まだ、言いません」
「では、そのうちに、ノエルさんの気が向いた時に」


20 帰り道
SILVER EYEが黒沢たちの元へノエルを連れて行き、一同が合流した。パーティーの
続いているさなか、彼らは適当に切り上げて会場をあとにした。SILVER EYEが藍に
尋ねる。
「トロフィーは持っていかなくていいんですか」
「あとから浅葱出版の人が郵送してくれる手筈になってるのよ」
「用心しているんですね」
「例によってね」
仕事の途中で抜けて来たから、と翔はビルを出たところで黒沢たちと別れた。
「これから残業かしらね、翔さん」
腕時計を見て藍が言う。もうじき5時である。
「パーティーに出ていた編集者の方が、ひとり過労で倒れたそうですね。医務室送りに
なったとか」
藍のブローチに取り込んだ編集者を、自分で医務室に連れて行っておきながら、
SILVER EYEが第三者の顔で言う。
「藍さんも、黒沢さんの世話の焼き過ぎて倒れないでくださいね」
「倒れる前に、休暇をもらうようにするわ」
「そうしてください」
「私は真子姉さんじゃないから、その辺は心配しないで」
黒沢の意識がノエルと博にいっているのを確認して、SILVER EYEが言う。
「ブローチの人については、もう気にしなくていいですよ」
「そうなの?」
「はい。パーティーで気分が高揚しての発言だったようです。これから先、問題は起こさない
でしょう」
「ありがとう、画家さん」
最寄り駅につき、電車に乗る。ラッシュアワーにはまだ早いが座りそびれ、5人でドア付近に
立った。高架線部分を走っている時、藍が言った。
「ここから、ツインタワービルが見えるのよね」
言いながら、外を指さす。一同がそちらを見ると、さっきまでいた東館が手前に見えた。
見ているうちに、タワーの見える角度が変わり、やがて視界から消えていった。
「ま、一時はどうなるかと思ったこともあったけど、楽しかったにゃ」
思わず本心が出たという風に、黒沢が言う。
「おめでとうございました、だわね」
「うん、あんがとねっ」
「ところで画家さん、今日はイリュージョンに飲みに行かなくてよかったの?」
「みなさんと一緒にアレキサンドライトに行きます。電話しておきましたから、マスターも
真子さんも、待ってますよ」


21 同夜 ノエルの部屋
ノエルがハンドベルのCDを聞きながら水晶を拭いている。ドアがノックされ、「はい」と
応える。藍が入ってくる。CDに耳を傾けながら「チェンバーリンギング・ソロイスツだった
わよね」と言う。うなづくノエル。藍はベッドに腰かける。
「ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」なんて、演奏してくれないかしら」
ノエルは首を傾げた。藍がフォローする。
「ピアノ奏者は左手だけで弾けるコンチェルトよ。右手は使わないの」
「そういうのってあるんですか」
「ええ。第1次世界大戦で右手をなくしたピアニストが、ラヴェルに委嘱したのよ」
藍は左手を膝の上で遊ばせる。ピアノを弾くふりである。
「ノエル、私が左利きなの、気づいてた?」
こっくりとうなづくノエル。
「包丁を使うのを見てます」
「そうなのよね。文字は右手で書くけど、あとは全部、左。面白いでしょ」
くすくす笑う。
「絵を描くのも左なんだから」
なおも左手で見えないピアノを弾く。
「途中でやめたけど、そのコンチェルトを習うくらいまで行ってみたかったわ」
「今から、また習うのは駄目ですか」
「なかなか練習が続かないんじゃないかしら」
ノエルは水晶を机の上に置き、CDを止めて藍を見る。
「でも、あと半月くらいで、藍さんは自分の時間をたくさん持てるようになるじゃない
ですか」
藍は左手を止める。
「私がいなくなります。おじさんの秘書の仕事が終わったら、あとの時間はフリーです」
「ノエルっ」
慌てて、立ち上がる藍。
「藍さん、慌てなくても、最初から1年ってわかってたんですから」
ノエルも付き合うように立ち上がる。藍の胸元にのノエルの頭がくる。
「それはそうだけど、こういう話しの流れで言わないでよね」
藍は両手で、ゆっくりとノエルを抱きしめる。
「ノエル、今日は受賞式にきてくれてありがとう。なんだか、どうしても言っておいた方が
いいような気がしたのよ。それと、黒沢さんのところに身を寄せてくれたのも、ありがとう」
「私も、ここに来れていろいろ楽しかったです」
ノエルも藍の体にしがみつく。
「あと半月、よろしくお願いします」
「こちらこそよ」
やがて藍はノエルを離す。
「じゃあ、おやすみさない、ノエル」
「藍さん、ご用があったんじゃないんですか」
「いいのよ。もう、言いたいことは言ったから。おやすみなさい」
「おやすみなさい」


22 プレゼント
藍はノエルの部屋を出てキッチンに入った。冷蔵庫からピーチジュースを取り出して
飲む。と、ドアホンが鳴った。
「夜になってから、誰よ?」
インターホンに出ると、黒沢だった。藍はドアを開ける。
「どうしたの、こんな時間に」
「昼間、忘れ物したんだよお」
「何?」と藍が聞き返す前に、黒沢は白い小さいしっかりした紙袋を差し出す。ゲランの
ものである。
「今日、ホワイトデーだったよね。朝、渡しそびれちゃった。ごめんね」
「と、いうことは? 黒沢さん」
「リクエストをいただいていた、シャリマーです」
パキスタンにある、有名な宮殿の庭園の名前。シャリマーは千夜一夜物語の香水とも
言われる。
「ユーモアSF本格推理作家の秘書の香水にはふさわしいわね」
「はあ?」
「なんでもないわ。元々これか好きだったったなんて、面白い符合よね」
受け取った藍は素早く黒沢の頬にキスする。
「ありがと、黒沢さん。おやすみなさい」
黒沢が返事をする前に、藍は扉をしめた。忘れずに鍵とチェーンがかけられる。黒沢は
ドアに向かって「おやすみ」と言った。キスされた頬を思い切りつねる。
「痛い。夢、じゃないよね」


23 1週間後 小学校の講堂
卒業式が明るく、かつ規律をもって行われている。卒業生、在校生、校長を初めとする
教師陣もリラックスして、楽しそうにしている。参列している保護者も、それは同様だった。
式典の合間の短い休憩時間、ノエルの父親が黒沢に話しかけた。
「ノエルを押しつけるみたいに預けて、申し訳なかったね」
「いえいえ、楽しい1年でしたよ、おじさん」
夫人も藍を労(ねぎら)う。
「朱鷺の森さん、いいえ、藍さんにもご迷惑をおかけしたわね。ごめんなさい、そして
ありがとう」
「私こそ、お礼を言わせていただきたいくらいです。黒沢さんみたいな言い方になり
ますけど、本当に楽しかったんですよ」
「あと少しですけど、あの子をよろしくお願いしますね」
今日、両親はノエルの卒業式に参加して、そのあとトンボ帰りでまた海を渡っていく。
約10日後には本当に帰国となる。ノエルが両親の元に帰るのも、その時である。
「私、本当に、4月一杯303号室にいていいんですか?」
夫人のパロマピカソの香りを一年振りに嗅ぎながら、藍が尋ねる。
「いいのよ。ゆっくり、お引っ越し先を探してくださいね。4月の1か月はボーナスだと
思ってね」
「はい」
芹が谷氏は、黒沢の隣の部屋を4月中は借りるように手配し直していた、光熱費等は
藍が支払うが、部屋代は同氏持ちである。
「ありがたく、使わせていただきます」
司会が休憩時間終了を告げる。黒沢たちは姿勢を正した。


24 約10日後 アレキサンドライト店内
4月1日。黒沢がいつもと同じメニューの朝食を取っている。だが、時おりため息をついて
外を眺めるという動作が普段と違っていた。赤井と真子はカウンターから心配そうに
黒沢の様子をうかがっていた。
「真子ちゃん、コーヒーおかわり、ちょうだい」
「はい」
待ち構えていたように真子が2杯目を運ぶ。
「どうぞ」
「あんがと」
黒沢はがぶりとコーヒーを飲む。
「ん? 真子ちゃん、おいらの顔になんかついてる?」
「なんだか、お元気がなさそうなんですけど」
「ノエルがいなくなったから、気が抜けてんのよ」
真子が納得した顔になる。
「昨日がお引っ越しだったんですものね」
「朝、ノエルがお早うを言いに来なかったから、変な感じだよ。学校が休みの時でも、
ちゃんと言ってくれてたのに、さっ」
「今朝は寝坊されました?」
「おいらは、いつも自然に目が覚めます。目ざまし時計のお世話になったことは、ほとんど
ないのよ」
「失礼いたしました」
黒沢は真子の腹部を見る。不躾な視線にならないよう、気をつけている。
「真子ちゃん、今、何か月だっけ」
「7か月、26週です」
「おっきくなってきたね。妊婦さん向けの運動とか、健康法とか、あるの?」
「はい。隣の駅前ビルにフィットネスクラブが出来ましたので、そこのマタニティスイミング
コースに入りました」
「泳いでるのね」
「ええ」
真子は続けて、くすっと笑う。
「同じビルの中に喫茶店があるので、帰りにちょっと寄るのが楽しみなんです」
「消費したカロリー分だけ、補充しちゃうのね」
黒沢は、なんとなく元気が戻った様子でコーヒーを飲み干す。
「そんじゃ、コーヒーおかわりとアップルパイ、ちょーだい」


25 願い事は
いつもと同じ時間帯に、黒沢は302号室に戻ってきた。
「ただいまー。藍ちゃん、開けてー」
「はーあーいっ」
インターホン越しの会話も、いつも通りである。チェーンと鍵が開けられる。
「何か、あった?」
「金春さんから、電子メール。「「プレゼント」の次の企画を、そのうちまとめましょう」、
ですって」
「りょーかい」
「なかなか評判がよかったみたいよ、あの作品は」
「こんつぎは、少し長めのものになって、ショートショート企画にでもなるのかにゃ」
2人は話しながら書斎に行く。黒沢はパソコンを起動させる。書きかけの文章を呼び出し、
続きを打ち始める。藍は 「お初さんの逮夜」のページにしおりをはさみ、戸板康二の
「グリーン車の子供」を脇に置いた。テーブル上でジグソーパズルを組み始める。
「藍ちゃん、そんなもの持ってたの?」
「ノエルがくれたのよ。去年、レジオン近くの百円ショップでまとめ買いしたもののひとつ
なの。お別れにね」
ピンク色の断片が散らばっている。完成すればコスモスになるはずである。
「ふーん」
黒沢は物語を紡ぐ手を止めて、藍の手元に見入る。黙っていられなくなり、一緒になって
遊び始める。
「黒沢さん、仕事はいいの?」
「今日はゆとりがあるよん」
「ダウトっ !」
「どーしてわかるのよっ」
「声のトーンが嘘だって自白してるわよっ。きりきり仕事に戻りなさい、きりきり」
「ふえーん。はーい」
黒沢は再び話しの糸を吐き出し始める。藍は藍で、絵柄の修復作業につとめる。ひとしきり
文章を打ったあと、黒沢はセーブしてキーボードをディスプレーの上に乗せた。キーボードの
あった位置に自分の上半身をかぶせる。ぺったりと机の上にうつ伏せて、黒沢は藍の姿を
見つめた。
「あのさ、藍ちゃん。頼みがあるんだけど」
「なに?」
藍はピースを持った手を止めて応える。
「今日がエイプリルフールなのは忘れて聞いて欲しいんだけど」
「はいはい?」
黒沢は体を起こして、まっすぐに藍を見る。視線を合わせて、遠慮がちに言う。
「おいらの子供、生んでくんないかなあ」
藍は呼吸が止まったような表情になり、ジグソーパズルのピースがことんとテーブルの上に
落ちた。黒沢は固唾を飲んで反応を待っている。藍は深呼吸してから、言った。
「そうなったら、私の秘書業務はどうなるのかしら」
「藍ちゃん以上の秘書さんはいないと思うから、続行でお願いします」
真面目な顔で答える黒沢。
「無職無給の専業主婦兼、あなたのアシスタントになれって?」
「かわりにおいらのお財布を握って管理することができるようになりますが」
「ちゃんと、雇用契約の形は整えておいて欲しいわね。秘書業務に関しては」
「それは、これから相談ということで。まだ、そこまで考えてないんだから、勘弁してっ」
「まあ、それはあとでもいいわよ」
こほん、と咳払いする藍。
「それで、子供は何人欲しいの?」
「とりあえず、ひとり。あとは、様子を見て」
「男の子? 女の子?」
「ノエルみたいな女の子だと嬉しいけど、博君みたいな男の子もいいなぁ。でも、
どっちでもいいです。藍ちゃんが生んでくれれば」
「ふーん」
藍は首を傾げ、黒沢を見る。瞳に、からかうような色がある。
「ノエルがいなくなって、寂しい?」
「それもあるけど〜、ノエルがいて、言うのが1年延期になってたんだよお」
「今度はダウトって言わなくてよさそうね」
「ですですの、です」
「でも、この1年は楽しかったわ」
「それは、おいらも同じことっ。で、藍ちゃーん、お返事は?」
藍はにっこりして言った。
「いいわよ、大成(たいせい)さん」


第12話 (中) 終わり

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