「水晶の向こう側」 (第9話)
第9話 「12月・・・ターコイズ・ブルー」
1 アレキサンドライト店内
黒沢がガーリックトーストを食べながら、クリスマスツリーの飾りつけをする真子を
見ている。ドア付近にもみの木があり、脱脂綿の雪が枝に積もっている。
「もう、今年も終わるんだねえ」
「そうですね」
真子はモールを枝に巻き付けている。
「真子ちゃん、てっぺんの星はわたしがつけるからね」
カウンターから赤井が言う。「はい」と応える真子。黒沢は席を立ち、空いたテーブルの
上の飾りをあれこれ手に取ってみる。靴下型の飾りがある。
「クリスマスって、どーして靴下にプレゼントを入れることになってるんだろうね」
「さあ、どうしてでしょうね」
ステッキ型の飾りをつけながら、真子が応える。
「いっそ、手袋を下げといてもいいんじゃないかなぁ」
2杯目のコーヒーを入れながら赤井が口をはさむ。
「でも、それじゃ入れられるものがないんじゃないですか」
「小さいもの専用にするとか、さっ」
首を傾げてにっこりと真子が言う。
「宝石でも入れますか?」
「うへっ、サンタさんも大変だ」
そういえば、と真子は言いだす。
「ノエルちゃんの誕生日は12月24日頃ですか」
「そうなのよ、まんま、12月24日。本当なら25日の方がノエルの名前にはふさわしい
みたいだけど」
「日本だとイブの方がメインになってますものね」
赤井が、黒沢の席にコーヒーを置く。
「黒沢さん、今年もうちでクリスマスパーティーをしようと思ってるんですけど、藍ちゃん、
ノエルちゃんと一緒にどうですか」
「嬉しいんだけどお、今年は浅葱出版のパーティーに行くかもしんない。結構、おいらの
本、売れてるらしい。で、藍ちゃんとノエルも誘われるかもしれないの。金春さんが積極的
なんだよん」
「お仕事のつきあいもあるでしょうから、無理しないでくださいね」
うんとうなづく黒沢。ドアを開けてSILVER EYEが入ってくる。挨拶を交わす一同。ツリーを
見上げたSILVER EYEは、「一番上の星、僕がつけましょうか? 真子さんは登らない方が
いいでしょう」と言った。
赤井が、「いえ、わたしがやりますよ」とやんわりと言った。
2 黒沢の書斎
帰ってきた黒沢が、藍に電子メール等の有無を聞いている。
「2通ね。金春さんから、「プレゼント」第9回の催促があったわ。「Souvenir」、
送っておきました」
「あんがと、ねっ」
「旅行会社から、「まだ間に合う、クリスマス・ツアー」の案内が来てるわ」
「あとで見るよん。先月は盗作騒ぎでお出かけし損ねたもんね」
「ええ、そうね」
藍の顔がかすかにひきつっている。
「ん? どしたの、藍ちゃん」
「なんでもないわ」
黒沢はパソコンの電源を入れ、藍はケストナーの「雪の中の三人男」を読み始めた。
3 同時刻 アレキサンドライト
カウンターの中で真子があくびをかみ殺している。
「真子ちゃん、眠いの? 夜更かししたのかな」
皿を洗いながら赤井が言う。
「真子さん、つわりじゃないですか」
紅茶を飲みながらSILVER EYEが遠慮がちに言う。赤井は目をしばたく。真子は
微苦笑して応えた。
「そうみたいです」
4 招待状
同日3時頃。買い物から帰った藍が、黒沢に郵便物を渡す。出版社名義の封書と
書籍小包がひとつずつ。
「藍ちゃん、おいらのお仕事関係の物だったら、開けていいってば。そのための
秘書さんなんだし」
「でも、どっちも親展よ」
「あら、失礼しました」
書籍小包は同業者からの新刊プレゼントだった。差出人の名前を見て、黒沢は
声を上げた。
「鉄紺さんだあ」
「片岡鉄紺さん?」
「そう、あの人からもらうのって、初めてだ」
「一目置いてもらえるようになったとか?」
「そうは思いにくいんだけど」
8月のマーメイドホテルでの会話は、藍には話していない。黒沢は今回もそのことは
言わず、「まあ、あとで見てみるね」と本を脇に置いた。今度は封筒を見る。
「金春さんからだね」
くん・・と匂いを嗅ぐ黒沢。フローラル、ウッディ、アンバーなどの香りがする。
「ん〜。香水振りかけてあるね。珍しい」
「普段の仕事と、毛色の違う用事なのかもね」
落ち着いた顔で言う藍。
「華やかなこととか、楽しい用件なんじゃない?」
「開けてみればわかるもんねっ」
レターオープナーを取る黒沢。器用に封を開ける。
「クリスマスパーティーのご招待。藍ちゃん、ノエルもご一緒にどうぞって」
「やっぱり晴れの話しね」
黒沢は日時、場所等を読み上げる。
「編集さんと、浅葱で結構本を出してる物書きさんとで、こぢんまりとやりましょうって。
そんな大げさな公式イベントでなくて、半分プライベート感覚だってさ」
「ふうん」
「せっかくのお誘いだから、おいらとしては3人揃って出席したいんだけど、どお?」
「ノエルの学校にも支障のない日程だし、私も予定はないし、多分、大丈夫よ」
「やったあ」
万歳をする黒沢。
「だけど、一目でノエルの都合と併せてチェックできるって、すごいにゃ」
「一応、保護者・その2ですから」
「もうひとつ、単なる好奇心で聞くけど、金春さんが振りかけた香水、なんだかわかる?」
「ドルチェ＆ガッパーナ社のバイドルチェ＆ガッパーナ。男女どちらでも使えるタイプよ」
「よく知ってるのね」
「この間、打ち合わせした時につけていたから聞いたのよ」
5 同時刻 図書館
学校帰りのノエルが、駅前の図書館に寄っている。黒沢の本があるのを確かめて
にこにことしている。自分では借りず、ノエルはCDコーナーに回っていった。
6 同夜
夕食のついでに黒沢と藍が、ノエルに浅葱出版のパーティーの話しをした。ノエルは
「行きますっ」と元気よくうなづいた。
「何着ていく? クリスマス向けの色合いのがいいわね」
「うーんと、藍さんに何か作ってもらったら、駄目?」
「ありゃ、ノエルってば夏の浴衣で味しめてるよ」
すきやきの焼き豆腐を取りながら黒沢が笑う。
「あんまり藍ちゃんに負担かけちゃ駄目だよ」
「だってえ」と膨れるノエル。
藍はノエルの取り皿に肉を入れながら言う。
「子供向きのって、フリフリにかわいく作れて楽しいから、いいわよ。もっとも、ノエルが
そういうのを嫌がらなければだけど」
「パーティー用のなら、フリフリでもいいです」
「まあ、藍ちゃんがいいって言うなら、おいらは文句言わないけど、さっ」
今度はネギを取りながら、黒沢が言う。
「ただ、藍ちゃんは昼夜お仕事してるんだからさ、あんまりせっつかないようにね、
ノエル」
「はいっ、おじさん」
「近いうち、生地を買いに行きましょうね」
「浴衣みたいに、藍さんとお揃いは?」
「そこまで作る余裕があったらね」
女性2人の相談が賑やかになっていく。黒沢は面白そうに聞きながら箸を動かしていた。
7 黒沢の部屋
夕食後、黒沢が今朝来たメールをチェックしている。旅行会社のツアー案内である。
「藍ちゃん、「まだ間に合う、クリスマス・ハネムーン・ツアー」の「ハネムーン」を抜か
して言ったんじゃないの」
ディスプレーを見て「うーむ」と唸る黒沢。頭をぽりぽり掻く。
「おいらの考え過ぎか自惚れかしらん」
8 同時刻 ノエルの部屋
ノエルが水晶球を静かに見つめている。やがて、しまい、小さなため息をつく。小さいが
深い、子供に似つかわしくないため息。と、そこへノックの音がする。ぎくりとしながら、
「はい」と応える。藍が入ってくる。
「クリスマスの服のデザイン、どんなのがいい?」
スタイルブックを2〜3冊抱えている。
「えっと、えっとね・・・」
気分を切り換えたように、ノエルは明るい表情になって本のページをめくった。
9 翌朝 アレキサンドライト
黒沢がいつもの朝食を取りながら赤井と話している。
「そーいうわけなんで、アレキサンドライトのクリスマスパーティーは、今年は出られない
のよ。ごめんね、マスター」
「お気にせずに、そっちに出席されてください」
にこにこと応える赤井。
「けどさっ、考えてみれば、去年のクリスマスパーティーに真子ちゃんがアップルパイ
出して、それでアレキサンドライトのメニューになっちゃったんだよね」
「そうですね」
「今年も何か秘密兵器がお目見えする予定ってあるの? あったら、おいら、梯子しちゃ
おうかな」
「今のところ、そういう計画はありませんよ」
赤井は苦笑する。
「真子ちゃんが作るのが好きなのはアップルパイのようですし、これ以上彼女に何か
作ってもらうようにしたら、負担が大きくなってしまいますよ」
「だねっ」
「それとも黒沢さん、新しいメニューと引き換えにアップルパイをなくしていいですか?」
「いいわけないでしょーが」
思わずテーブルを叩く黒沢。
「そんなことになったら、朝ごはんの楽しみが3割減るよっ」
「毎度ご贔屓にありがとうございます」
深々と頭を下げる赤井。
「話してて、頼むの忘れてたわ。アップルパイちょーだい」
「はい」
いつもより、やや慎重に切りわける赤井。パクリと一口食べた黒沢は、満足そうに言った。
「いつもどーり、おいしいね」
「ありがとうございます」
ほっとした表情で言う赤井。
「ところで、今日は真子ちゃん、お休みなのね」
「はい」
「パイだけ置いて、お出かけでもしたの?」
「機密事項とさせていただきます」
10 同時刻 緑屋家 真子の部屋
真子がベッドで眠っている。穏やかな寝顔である。脇の机の上に、にんじんを両前足で
持って立った白いうさぎのぬいぐるみが置いてあり、隣に葉書ほどの大きさの油絵が飾っ
てある。描かれているのは白い芙蓉の花。緋色のブレザー着た腕がそれを取り上げる。
「新しい絵を描いた方がいいね」
真子の寝顔を見ながらSILVER EYEが呟いた。
11 二足のわらじプラス1?
マンションに戻った黒沢はぱちゃぱちゃと原稿を打つ。脇では藍が赤川次郎の
「クリスマス・イヴ」を読んでいる。
「ねー藍ちゃん、結局さあ、ノエルの洋服はどういうことになったの?」
「デザインは、夕べのうちに大体決めたわ。生地は今日明日中に買うの。学校
帰りのノエルと待ち合わせするわ」
「藍ちゃんとお揃いにするとかいう話しは」
「夕べも言ったけど、とにかく、ノエルのが先。余力があれば私のも考えるわ」
「無茶しないでね、藍ちゃん」
「はいはい」
「なんか、あまり本気で答えてもらってないよーな気がする」
「だって、楽しくなりそうなんだもの」
本を閉じて笑う。
「リクエスト出してもらえたんだから、張り切って作るわよ」
「ふうーん」
「仕事に支障のないようにするから」
「お仕事に影響が出るより、藍ちゃんの健康が気になるのっ」
11 訪問者
SILVER EYEが真子の寝顔を見ている。傍らのスケッチブックに手が伸びそうに
なるが、とどめる。玄関のチャイムが鳴る。放っておくSILVER EYE。今度は携帯
電話が彼のブレザーのポケットで振動した。
「はい」
「俺だ、アビルージュ」
「こんにちは、フィリアス。今、どちらですか」
「緑屋の家の玄関前だ」
「開けます」
ついと立って、玄関に向かうSILVER EYE。廊下に出て、どちらに曲がるか一瞬
迷った末、正しい方を選ぶ。ドアを開けると花束とその他の紙袋を下げた翔が
立っていた。
「いらっしゃい、フィリアス」
「自分の家みたいな物言いだな、アビルージュ」
「そういうつもりはありませんよ」
翔はすみやかに中に入る。
「待ち合わせて一緒に来た方がよかったかな」
「僕は、来た時は人に見られていませんので」
「そうか?」
「玄関の中に直接跳んでますから」
うなづく翔。SILVER EYEは応接間に案内する。
「真子さん、よく眠っていますよ」
「つわりのせいだろ。それに、お前も何か、眠るように仕向けたんじゃないか」
「正解です」
「まったく、至れり尽せりな奴」
苦笑する翔。「まるでお前が」と言いかけて、やめる。
「軽口で言うことじゃなかったな」
「どうしました?」
「独り言だ。それで、花は見て分かるだろうが、こっちは夕食の惣菜。真子が今日は
何もしなくていいように。甘いものも、ついでに」
「そちらこそ、気が回りますね」
「珠子のアドバイスだ」
今度はSILVER EYEがうなづく。
「流産しやすい時期ですからね。大切にしないと」
「ああ」
「実は、今日の分のアレキサンドライトのアップルパイは、叔母さんにピンチヒッターで
焼いてもらっているそうです」
「ほう」
「特に問題がなければ、しばらく続けるはずです」
「たぶん、問題ないだろう。真子たちにあれの焼き方を教えたのは、その叔母さんだからな」
「ええ」
SILVER EYEはくすりと笑う。
「毎日食べてる黒沢さんが、どう反応するのか見たかったんですけどね、直行でこちらに
来てしまいました」
「明日にでもマスターから聞けばいいだろうが」
柑橘系の香りに加えて白檀の香りがする。香りの元はSILVER EYEである。
「アビルージュ、つけてるな」
翔だけが呼ぶSILVER EYEのニックネーム、アビルージュはメンズコロンである。
「ええ」
「いいのか?」
「真子さんは眠気が強いだけで、香りは平気だそうですから。むしろ気分が落ち着くと
言われまして」
アビルージュの香りのように品よく微笑むSILVER EYE。
「俺が言ってるのは、そういう意味じゃないんだが」
「女性でもこの香りを纏う人はいますよ」
SILVER EYEは澄まして言う。事実、アビルージュは甘い香りが苦手な女性がつける
場合もあれば、和服の時につける場合もある。
「一応、俺は遠慮して来たんだがな」
翔のフィリアスは、印象としてはエゴイストに似ている。つける人間を選ぶ香りである。
「そう判断するなら、任せる。とにかく、気をつけろよな」
黙っているSILVER EYE。よく手入れした指先を見ている。油絵の具の痕跡はない。
翔は構わずに続ける。
「話しは変わるがな、例のねずみの奴」
目を上げるSILVER EYE。かすかに銀色を帯びた瞳で翔を見る。目線がきつくなっている。
「俺を睨んでも仕方ないだろう」
瞳の色が元に戻る。だが、表情は変わらない。
「黒沢氏たちに張りついてる探偵に、ちょっとそっちも見てもらったんだ。報告によると、
今のところ特に動きはないそうだ」
視線が和らぐSILVER EYE。
「このまま終わればいいですね」
「ああ。まだ、油断はしないがな。今年いっぱいは。あるいは、年度いっぱいだ」
「その方がいいでしょう」
「そういえば、盗作騒動では、なんだかわからんが上手くケリをつけたようだな」
「ええ」
「やっぱり、相棒は紹介してくれないのか」
翔はやや不満そうな表情である。SILVER EYEは困り顔になった。
「その件は、ノーコメントで勘弁してください」
翔は仕方ないというようにうなづく。SILVER EYEは話題を変える。
「それで、盗作の濡れ衣が晴れた作品ですが、何かの賞の候補になっていますよね」
「そうだな。俺は読んでない。ただ、珠子は面白がってたぞ」
「僕も読みました。面白かったですよ」
「ふうん・・・。それはそれとして、だな」
翔はにやりと笑う。
「お茶くらい出せよ」
「失礼しました」
頭を下げるSILVER EYE。
「緑屋の家で僕がそこまでやっていいものか、考えてしまって」
「だったら、俺がする。妻の姉のところなんだから」
席を立つ翔。SILVER EYEも腰を上げる。
「手伝いますよ」
「いや、お前は真子を起こしてこい。あいつにオフレコの話しは済んだんだ。
お茶は3人の方が楽しいだろ?」
12 アイディア
夕方。休憩タイムを取った黒沢は、ハードカバーの本を読んでいた。藍は、ノエルとの
待ち合わせ兼夕食の買い出しに出ていた。黙々と読み進める黒沢。眉間にしわが寄っ
ている。「ただいま」と藍が帰ってくる。
「チェーンもした方がいいと思うわよ。無用心だわ」
「ごめん、藍ちゃん」
「いつものことで、直らないのね、黒沢さん」
言ってから、黒沢の顔を覗き込む。
「どうしたの? 元気がないわよ」
「わかる? 藍ちゃん」
「わかるわよ、毎日顔を突き合わせて暮らしているんだもの」
自分で言ってから、「聞きようによっては、すごい言い方ね」と苦笑する。それを聞いても
照れない黒沢に、藍は首を傾げる。
「黒沢さんたら、たしかに、おかしいわ。どうしたのよ」
「理由は、こーれ」
読んでいた本を藍に渡す。片岡鉄紺の作品である。
「昨日届いた本ね」
「そう。「これが推理小説というものだ」って書いた短冊つきだったの。おいらの作風が
お気に召さないらしくてね。お手本にしなさいって言いたかったらしい」
「それで?」
ぱらぱらとめくる藍。
「とことんつまらなくてうんざりした顔には見えないわよ」
「メイントリックがさあ」
いつもより低い声になって黒沢が言う。
「何?」
「おいらが今、書き下ろしてるのとほとんど同じ」
「なんですって」
黒沢は、体を崩した風にして椅子に寄りかかる。
「だから、アイディアがぶつかっちゃったのよ」
「そんな・・・」
藍は呆然とする。
「時々、ミステリー作家のエッセイでそういう話しを読むけど、実際に遭遇するなんて」
「おいらも初めてだよ、こんな体験は」
黒沢は「あーあ」と天井を見上げる。
「8割くらいまで、書けてたのになー」
「やっぱり、発表はできないの?」
「無理だと思う。この、そっくりさ加減じゃあ」
藍はこめかみを押さえる。
「私が先に読んでた方がよかったかしらね。鉄紺さんの本」
「どーして」
「黒沢さんが直接読むのと、私が知らせるのと、どっちがよかったかと思って」
「ほえ?」と言ってから、黒沢は笑う 。
「どっちだって同じだよお。トリックがそっくりなことに、変わりはないんだし。強いて
上げれば、おいらが気づいてよかったかな。他の人が同じネタをどう料理するのか、
読者の立場で読めたもん」
「私が早く気づけば、昨日と今日、発表できない原稿を黒沢さんに書かせなくて済ん
だんじゃない? 私、ひまだからって、好きな本読んでたんだもの。鉄紺さんの新刊が
あったのに」
「ひまな時は、読みたい本読み放題なのは約束だったもん、いいよ」
「でもね、やっぱりごめんなさい」
藍は沈痛な面持ちでいる。「むーう」と唸った黒沢は、少し考えた末言った。
「そんじゃさ、藍ちゃん、明日アップルパイ焼いてよ。アレキサンドライトと味は同じ
だけど、軽食屋さんで食べるんでなくて、たまにはホームメイドがいいな」
13 同夜 藍の部屋
藍が緑色の生地にチャコペーパーで線を引いている。ノエルがそれを脇で見ている。
クリスマス用の服の型取りである。作業をしながら、藍は鉄紺の新作の話しをした。
「おじさん、ショックですね」
聞き終わったノエルは、真面目に言った。
「そうね」
慎重に印をつけながら藍が受ける。
「でも、ご飯の時、いつもと変わらなかったのに」
「それだけ、つらいんじゃないかしらね。がんばって、普通の振りをしていたような気が
するわ」
「ふーん」
ノエルは藍の手元を見ている。藍は黙々と作業をしている。ノエルは「ちょっと
ごめんなさぁい」と出ていき、CDを持って戻ってくる。藍のプレイヤーを借りて
スタートさせる。ハープともオルゴールともつかない音が部屋の中に響く。
藍は目を見開いた。
「きれいな音・・・。ノエル、何、これ?」
「ハンドベルの演奏です」
にこっ、と答えるノエル。
「珍しいCDがあったわね」
作業を止めて、聴き入る藍。
「チェンバーリンギング・ソロイスツっていう、日本ではたったひとつのプロのハンドベル・
アンサンブルのCDなんです。学校のホームルームで、先生が紹介してくれたの」
「千草先生?」
「うん」
藍はCDジャケットを手に取って収録曲を見る。
「私の知ってる曲っていうと、シューベルトの「アヴェ・マリア」とバッハの「主よ人の望みの
喜びよ」くらいね」
タイトルの「天使の復活」は「天使」をめぐる主題を扱ったピアソラの連作の一曲である。
ノエルはにこーっと藍の顔を見ている。ノエルを見返した藍は、くすっと笑って言った。
「もう少し聴いてから、黒沢さんに貸しに行っていい? 気落ちしてるだろうから、慰め用にね」
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14 翌朝 アレキサンドライト店内
いつものように黒沢がガーリックトーストを食べている。
「真子ちゃん、今日もお休みなのね」
「はい」
「具合悪いの?」
「いいえ、念のためです。放っておくとお休みを取らないかもしれないので、こちらから
休ませてしまいました」
「マスター、てんてこ舞いにならない?」
「幸か不幸か、元はわたし一人でやっていた店ですし」
「聞いたことあるよーな気がするにゃ」
2杯目のコーヒーを頼む黒沢。
「先に言っとくけどね、マスター。今日はアップルパイ、いらないから」
赤井は黒沢をまじまじと見つめた。
「昨日のアップルパイに、何かご不満でも?」
「うんにゃ。いつもと同じでおいしかったよ。でも、今日は藍ちゃんにお願いしたの」
「そうですか」
額の汗をこっそりぬぐう赤井。
「で、さあ、マスター。話しは変わるけど、SILVER EYEさんのうち、どこだか知らない?
それから電話番号も。教えて欲しいのよ」
15 午後 SILVER EYEの家
お茶の時間。朝から電話でアポイントメントを取っていた黒沢が訪れている。応接室に
通そうとするSILVER EYEに、「出来れば仕事してる部屋にしてくんない?」と希望を言い、
アトリエに腰を落ち着けた。
「SILVER EYEさん、いつもここで仕事してるのに、絵の具の匂いがうつらない人なんだね」
テレピン油などの香りに鼻をひくつかせながら黒沢が言う。
「匂いを落としてから出かけるからですよ」
「ブレザー着てないSILVER EYEさんを見るのも珍しい」
「自分の家ですから」
SILVER EYEがくすりと笑う。今日の彼は緋色のチョッキを着ている。
「いつもと違うものはいかがですか」とSILVER EYEがホットレモネードとヌガー・ケーキを
出す。「ありがとう」と素直に受け取る黒沢。庭には冬珊瑚(ふゆさんご)の鉢が数個並び、
赤い実をつけている。イギリス式の庭の造りと上手く調和している。しばし、窓の外を眺め
ながらのお茶会となる。
「お仕事の邪魔してごめんね、SILVER EYEさん」
「いいえ」
品よく微笑むSILVER EYE。
「家を出る前にご連絡をいただきましたからね。午後にするつもりだったことは、先に
済ませましたよ」
「アレキサンドライトでお茶しそこねたでしょ」
「いいですよ、たまには」
「真子ちゃんもお休みだし、かあ」
「は?」
「ひとりごとなのよ」
そう言ってから、頭を下げる。
「ごめん、おいら、ちょっとおかしいわ」
「いえいえ」
苦笑するSILVER EYE。
「普通に元気な時の黒沢さんが、僕に会いたいと思うとは考えにくいですから」
「ごめんねえ」
もう一度、より深く頭を下げる黒沢。「頭を上げてください」と言う SILVER EYE。
「それで、どうなさったんですか。僕でよければお話を伺いますよ」
16 クリエイター
黒沢はゆっくり時間をかけて、鉄紺とのマーメイドホテルでの会話から、
アイディアが重なった話しまでをした。話し終えて、くったりと椅子にもたれ、
窓の外を眺める。SILVER EYEは黙ってレモネードのおかわりを注いだ。
黒沢はそれを飲みながら言った。
「ショックだったんだよね」
SILVER EYEは黒沢の顔を見た。口調に隠されたニュアンスを吟味する。
「アイディアが同じだったことだけが、ショックの原因ではなさそうですね」
「わかる?」
「ええ」
微苦笑してうなづくSILVER EYE。
「なんとなく、ですけどね」
黒沢も「てへへ」と苦笑いする。
「ジャンルは違っても、お仕事の性質は似てるからかにゃ」
うーんと伸びをして、姿勢をやや整える。
「SILVER EYEさん、おいらの肩書、覚えてる?」
「ユーモアSF本格推理作家ですね」
「正確に言ってくれて、あんがとねっ」
レモネードをもう一口飲んで続ける。
「作品ごとに、ちょっと変わったSF的設定をつけるんだよね。で、それを元に
して謎ができてる。謎解きもその設定に基づいてするわけ」
「僕もいくつか読ませてもらってますよ」
「ご愛読、ありがとうございます」
黒沢は、ぺこ、と頭を下げる。
「おいらは、そういう特別に作った舞台が好きなんだよね。作り物の要素がことさら
強いミステリーだから、そういうこともできると思う。素っ頓狂な設定でも、その中で
破綻させないで、ちゃんと話しを作ればいいんだ」
「わかります」
「でも、そーいうのを好いてない先輩さんもいるんだよね」
「例えば今回の鉄紺さんですね」
「そう。それはいいの。人によって考え方は違うから。おいら、鉄紺さんは尊敬してるし」
SILVER EYEは「それで?」と先を促す。
「でも、おいらも、たまーには普通の世界で普通の謎解きをしたいって思うんだよね。
それで、今回は普通の世界を舞台にしたのよ」
SILVER EYEはうなづく。
「なのに、アイディアがぶつかった、というわけですか」
「さっきも言ったけど、それはまだ、いいの」
黒沢は首をすくめる。
「それでは、何が?」
「当ててみる? SILVER EYEさん」
泣きべそをかいたような顔で言う黒沢。SILVER EYEは首を傾げ、やがて、遠慮がちに
口を開いた。
「もしかして、トリックが同じでも鉄紺さんの物の方が」
「面白かったんだよお」
SILVER EYEの言葉を奪って、黒沢がうめくように言った。テーブルに拳を打ちつける。
「そうなんだよっ。悔しいったら、ないよ。「これが推理小説というものだ」っていう短冊の
とおりだよ。同じトリックで同じ普通の世界設定でも、料理の腕にすごく差があってさ。
見せつけられちゃって、堪らないよ」
SILVER EYEは黙って聞いている。
「先に鉄紺さんのが発表されてよかった。こっちが脱稿前で取りやめになったからさ。
時期がずれて同時発売だったら、恥かくところだった。それで、もしもおいらのが先で
鉄紺さんが発表をやめることになったら、知らない人にはそのままで済むけど、鉄紺さん、
読んだら絶対鼻で笑うよ。それ考えたら、恥ずかしくていられない」
SILVER EYEは沈黙を保つ。黒沢は半ばひとりごとのように続ける。
「でも、鉄紺さんは知らなくても、おいら自身はわかってるんだよ」
SILVER EYEはまだ黙っている。
「虚勢張って、藍ちゃんには何でもないように言っといたけどさ、今日、普通の顔してお仕事
する自信なかったよ。だから、自分で資料集めすることにして出て来ちゃったんだ。おさぼり
だよ、おさぼり」
「藍さんは、その辺のことは、きっとわかっていますよ」
「それでもいいのっ。つっこみは入れられなかったから。「そう」って言って、出してくれたから」
そっぽを向いて続ける。
「だから好き。普段はきつい物言いするけど、こういう時はそっとしといてくれるから」
聞こえない振りをするSILVER EYE。今の言葉をなかったことにして言う。
「黒沢さん、百も承知のことだろうとは思いますが、鉄紺さんも何度となくそういう思いを
して、書き続けてらしたんじゃないですか。黒沢さんより、ずっと先輩なんですから」
黒沢はSILVER EYEを見た。無言で視線を外し、もう一度、庭を見てつぶやく。
「うん、そうだよね。おいらだけじゃないよね」
うん、うんと、胸に勇気をつぎ込むようにひとりうなづく。やがて、SILVER EYEに振り
向いて、照れた顔で言った。
「SILVER EYEさん、アレキサンドライトの代わりにして申し訳ないけど、コーヒーもらえる?」
17 同時刻 アレキサンドライト店内
藍がピーチジュースとアップルパイをつまんでいる。座っているのは、いつもの
黒沢の席の向かいである。
「不思議よね。味は確かに同じなのに、やっぱり叔母さんが焼いてくれたんだって
いう感じがする」
おかしそうに笑っている藍に、赤井は渋い顔で言った。
「まったくもう、今朝、黒沢さんに「パイはいらない」って言われた時には焦りましたよ」
「ピンチヒッターの話しはしてないわよ」
「それは、わかってますよ。だからこそ焦ったんです」
赤井はカウンターから身を乗りだす。
「ところで、どういう風の吹き回しで藍ちゃんにリクエストしたの?」
藍は平然と、
「なんとなく、いつもと違うことをしたくなったみたいよ」
と答えた。
18 SILVER EYEのアトリエ
気を取り直した黒沢が、好奇心を発揮している。SILVER EYEのスケッチブックを
見つけ、「見てもいい?」と尋ねる。気さくに「どうぞ」と応えるSILVER EYE。最初から
順に見ていく黒沢。一通り見てから、「人物のスケッチは、真子ちゃんばかりだね」と
なにげない口調で言った。「ええ」とSILVER EYEも何気なく応えた。
「季節が、夏から始まってない? そんでもって、秋、冬、春って巡って、また、夏、秋、
そんで、この冬?」
「そうです」
「去年の夏、「シャレード」描いた頃から?」
「ええ」
「ふうん。あんがと」
おとなしくスケッチブックを返す黒沢。そのあと、少し話しをしてから、黒沢は帰っていった。
SILVER EYEはスケッチブックを手に苦笑した。
「寝顔のスケッチを自粛したのは、正解だったかな」
19 その日
クリスマスイブの夕方。ノエルは自室のベッドの中にいた。洋服かけの一番手前には
緑色の生地の新しいワンピースがかかっている。ノエルは赤い顔でその服を見ていた。
「まだ下がってないわね」
ノエルの枕元で、藍が体温計を見て言った。
「体温計が故障してない? 藍さん」
藍はこつんと、ノエルの額と自分の額を合わせた。
「熱はあるわよ。故障じゃないわ」
「藍さんの体温が低すぎるとか」
「そういうことは、ないわ」
外出着の黒沢が入ってくる。
「ノエルの具合、どーお?」
「元気だけど、熱は下がってないわ」
「と、ゆーことは?」
「パーティーには行けないわね」
「ありゃ」
黒沢は藍の脇に立って、ノエルの顔を覗き込む。
「残念だねえ」
「おじさん、行っちゃ駄目?」
黒沢が答える前に藍が「駄目です」と宣言する。
「藍ちゃんってば、きびしー」
「こじらせたら大変でしょ。当然のことです」
「はーい」
黒沢はノエルの頭を撫でながら、「つらいけど、ほんとのことだね」と、言う。
しぶしぶ、「はい」と応えるノエル。
「そんで、藍ちゃんはどうするの? 留守番?」
「ノエルを放って2人で出かけるわけに行かないでしょ。残ります」
「うーみゅ。それも、仕方ないね」
「藍さぁん、おじさん。おじさんも行かないっていうのは?」
2人を見上げながらノエルが言う。
「私的な面が強くても、出版社さんのお誘いだからねえ。浅葱には、おいら、
大分お世話になってるし」
「欠席はできないわね」
ノエルは熱のためなのか、涙目になって訴える。
「おじさんも、家にいてよお。行っちゃやだ」
黒沢はもう一度ノエルの頭を撫でる。
「そうも行かないんだよね、ごめんねノエル」
20 留守番の2人
黒沢が少し早めに出かけたあと、藍はおじやを作った。ノエルの部屋に運んで
行くと、ノエルはベッドの上に半身を起こし、水晶球を見つめていた。
「熱のある時に覗いて、集中できるの?」
ノエルは黙って水晶をしまった。藍はノエルの枕元に行く。
「ごめんね、ノエル。意地悪や厭味じゃないのよ。ただ、疲れちゃいけないと思って」
こくりとうなづくノエル。さじを持ちながら、気弱そうに、「おじさん、早く帰ってくるといい
けど」と言う。くすりと笑う藍。
「熱のせいで心細いの? 大丈夫よ。黒沢さんは、そんなに帰りの遅くなる人じゃないわ」
「うん」
「ノエルの誕生日のお祝いも併せて、治ったら、何かしましょうね」
21 都心近くの路上
黒沢が化粧品店から出てくる。白い紙に青い紐、包装紙の裏打ちの紙も青色の
小さい手提げを持っている。かすかに顔が上気している。
「取材でだったら、どこに行っても平気なのにねーっ」
横断歩道が赤になっている。立ち止まって紙袋をしげしげと見る。青色で「GUERLAIN
PARIS」と印刷されている。
「ゲランって、青が好きなのかなっ」
信号が青に変わる。黒沢が渡り始めた時、乗用車が信号を無視して突っ込んできた。
22 知らせ
藍が自室でガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」を聴いている。聴きながら旅行
会社のパンフレットを見ている。先頃、黒沢の元に電子メールが来ていた「クリスマス・
ハネムーン」企画の紙媒体のものである。藍は苦笑する。
「ハネムーンより先に、家族旅行をしてるわよね。それだって、年末年始は新作の完全
書き直しで無理だわ」
時計を見る。そろそろパーティー会場に着いた頃だと見当をつける。
「楽しんで来てよね、3人分」
電話が鳴る。居間に取りに行く藍。
「はい」
ノエルと住んでいるため、名字は言わない。聞き慣れない男性の声が言った。
「***警察署ですが」
「は?」
真子と赤井を思い浮かべて、どきりとする藍。警官は藍の名前を確認してから黒沢の
名前を出し、彼を知っているかと尋ねる。
「知っています。彼の仕事のアシスタントをしています」
ペンを取りながら、「黒沢に何かご用でしょうか」と尋ねる。警官は私情を交えずに言った。
「黒沢さんが交通事故に遭われて病院に運ばれました」
続けて警官が告げる病院名を、藍は半ば無意識にメモした。電話を切ってから、呆然と
立ちすくむ。
「事故?」
いつの間にかノエルが起きて来ていて、パジャマ姿で藍に尋ねた。
「どうしたの、お電話なんだったの、藍さん」
「ノエル」
藍は我に返ってノエルを見て、言った。
「ノエルが心配したとおりね。黒沢さんが、帰るのが遅くなりそうなの」
23 クリスマス・プレゼント
小1時間後。病院に着いた藍は受け付けに行った。教えられた病室に向かうと、その前の
廊下に翔が立っていた。
「藍、こっちだ」
「翔さん、どうしてここに?」
藍は目を丸くする。翔は困ったように、「まあ、いろいろあってな」と答えた。彼の隣りに、
20代初めで耳殻が外側に飛び出し、えらの張った男性がいる。翔が彼を藍に引き合わ
せた。
「この人は俺の知り合いでね。黒沢さんが事故に遭った時、ちょうど居合わせて、俺に
連絡してくれた。それでまあ、この病院に運んでもらうよう、手を回したのさ」
ここは五色グループ絡みというより、柴崎家と親しい病院である。
「ありがとう、翔さん」
状況が分からないながら、2人に頭を下げる藍。
「では、私はこれで」
翔と一緒にいた男性は、会釈をして去っていった。
「それで、黒沢さんの様子は?」
翔が答えようとした時、ドアが開き、中からSILVER EYEが出てきた。藍はさらに目を
丸くする。SILVER EYEは翔に軽くうなづき、藍にはきちんと挨拶した。
「こいつは俺が呼んだんだ。妙な技を使える奴だっていうことは知ってるだろ?」
飲み込めないという表情の藍に、SILVER EYEは補足する。
「マウストラップですよ。黒沢さんの場合は、怪我の治癒を促進させるのに、少しは役立ち
ます」
藍は物問いたげに翔とSILVER EYEを見る。気づいたSILVER EYEが言った。
「黒沢さんの怪我は大したことはありませんよ。軽く接触しただけです。今は眠っています。
検査をして2、3日様子をみて、それで退院の予定だそうです」
「そう。ありがとう、画家さん」
藍は抑揚を殺して言った。さらに続ける。
「金春さんに連絡しなきゃ。会場に着いてなくて、心配してるわよね。私ったら、浅葱出版に
言う前に来ちゃったのよ。秘書にしては、抜けてる」
話しながら声が震え始めるが、言葉は止まらない。
「新作の執筆スケジュールがどうなるか、調整しなきゃ。事故って言ったわよね。示談とか
必要ね」
「それは、俺が手配してやる。藍は黒沢氏のサポートに徹してろ」
「「プレゼント」は、いいわよね。送ったばかりだもの」
「藍さん、秘書業だけにこだわらなくてもいいでしょう? 個人的に黒沢さんの心配をしても、
誰も後ろ指差しませんよ」
「どうして個人的っていう話しになるのよ」
震えた声で、食ってかかるように言う。
「いいじゃないか。もしも死んでたら、秘書も個人もあったもんじゃないぞ」
心底という思い入れで、翔が言う。
「馬鹿なこと言わないでよ、翔さん。縁起でもない」
「俺は真面目に言っている」
藍は、翔をにらみつける。怯まずに翔は言った。
「事故が予告なしで起こるっていうことは、知ってるだろうが、藍」
SILVER EYEは、「お父さんが亡くなられたのは、事故でしたよね」と、そっと言った。
「どうして、2人とも、わざわざ思い出させるのよ」
藍の目にかすかに涙が浮かんだ。
「こいつとしては、依怙地になるなって言いたいんだろ。俺も同感だがな」
「すみません、藍さん」
「余計なお世話だわ」
藍はうつむいた。翔は軽く肩を叩く。
「泣きたい時には、泣けよ」
うつむいたまま、藍の肩が小刻みに震えだす。
「よかったら、どうぞ」
SILVER EYEがハンカチを差し出す。ハンカチを握って、くぐもった声で藍が言う。
「いいこと、あなたたち。私が泣いてたなんて黒沢さんに言ったら駄目よ。絶対よ。
言ったら許さないから」
「はいはい」と藍をあやす翔とSILVER EYE。口調をやや軽めに変えて、翔が言う。
「黒沢氏の寝顔を見たら、帰りにアレキサンドライトに寄っていくか? 珠子も子供連れで
来てるし、燈子も行ってるそうだ。たまには秘書や保護者代理でなくて三女に戻れ」
うさぎのように目を赤くして、藍が応えた。
「ええ・・。そうするわ」
24 旅行の行方
熱で赤い顔のまま、ノエルが居間でテレビを見ている。臨時ニュースの最中である。
アナウンサーは、某観光地で事故が起こり、ハネムーナー対象のクリスマス・ツアーの
一行が巻き込まれ、多数の死傷者が出たと告げていた。
第9話 終わり
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