「水晶の向こう側」 (第6話)
第6話 「9月・・・コーンフラワー・ブルー」
1 ヘアブラシ
9月の初め。学校に行く仕度をしていたノエルが、洗面所の鏡に向かっている。
ボブカットの髪が伸び、中途半端な長さになりかかっている。
「切りに行かなきゃ」
櫛で梳かしながら、言う。洗濯機を回しにすぐ近くに来ていた藍が、聞きつけて話し
かけた。
「いっそのこと、伸ばしたら? 私、髪の長いノエルは知らないんだから、見たいわ。
梳かしたいって気もあるし」
ノエルは「えへへ」と笑う。
「いいです。また、切りに行くから」
「そう?」
藍は苦笑して洗濯機に向かう。ノエルは身支度を整えて鞄を取りに行く。残された
藍は鏡を見てつぶやいた。
「お母さんには、まだまだ役不足よね。ノエルを取っちゃう気はないけど」
2 アレキサンドライト店内
ノエルがドアホン越しに黒沢に挨拶して登校したあと、黒沢はアレキサンドライトに
出かけた。いつもの席でいつものメニューを頼む。食事が一段落したところで、赤井
たちにフォトアルバムを見せる。
「ね、これが夏祭に行った時のだよん」
浴衣を着た藍とノエルが写っている。
「藍の手縫いですね」
「なんだよねーっ。藍ちゃんにああいう特技があるとは知りませんでした」
「お料理やパイを焼いたりするより、お裁縫か手芸をしている方が好きな子ですよ」
「あらまっ」
赤井は目を細めて写真を見ている。
「ところで、黒沢さんは写ってないですね」
「恥ずかしーもん。きれいどころのお2人さんを写すのに徹しました」
「黒沢さんは、何を着て行かれたんですか。藍ちゃんの縫った浴衣?」
「うんにゃ。普通のかっこ。声はかけてもらったけど、照れちゃってさーっ。丁寧に
お断り申し上げたのよ」
「わたしだったら、作ってもらいますけどね。勿体ないことしましたね、黒沢さん」
「いーいーのっ」
赤井たちの会話を聞いて、真子はくすくす笑っている。
「また、来年にでも機会があったら、縫ってもらうように頼んでみたらいかがですか」
「いーって言ってるのにい」
3 同時刻 302号室
藍が出かける仕度をしている。黒沢の代理で金春と打ち合わせである。
「電子メールばかりでなくて、たまに会えるのもいいわよね」
火の元と戸締りを確認して、藍は出かけた。
4 アレキサンドライト
黒沢と真子たちの雑談は、黒沢の仕事のことに移っている。「プレゼント」の
次回作のタイトルを赤井に聞かれ、黒沢は「ガールフレンド」と答える。
「そーいえば、藍ちゃんの誕生日って、今月だよね」
「そうですよ」
真子がうなづく。
「藍ちゃんだったら、どういうものを喜ぶと思う? おねーさんとしては」
「誕生日のプレゼントですか?」
ふんわり笑う真子。
「青いバラなんて、無理ですよね」
聞いていた赤井が吹き出す。
「それは、真子ちゃんの好みでしょう」
「それは、そうですけど。一応、青い色にこだわってみました」
「藍ちゃんてさー、青色好きだよね」
「ええ。名前のせいもあるかもしれません」
「ふーむ」とうなづく黒沢。「真子ちゃん、珠子ちゃん、藍ちゃん、燈子ちゃん」と
4人姉妹の名前を順に言ってみる。
「藍ちゃんだけ、子の字がつかないのね」
「別に藍が仲間外れなわけではありませんよ」
真面目に応える真子。
「上の3人は父が命名してくれましたけど、私と珠子は真珠から分けて名前を
つけています。藍は愛にかけて、同時にきりっとした感じにしたかったそうです。
父は、真珠に愛を注いでましたから。あと、この3人で言えば珠子だけ音(おん)が
3つで、彼女が仲間外れになりませんか?」
「まあ、言われてみればね」
「燈子は亡くなった祖父がつけています」
「で、由来は?」
「ひとつくらい、黒沢さんが知らないものがあってもいいでしょう?」
にっこりと笑って、真子は名前に関する話題を終わらせた。
5 同時刻 302号室前
学校を早退したノエルが黒沢の部屋のドアホンを鳴らしている。応答はない。
「藍さん、いないの?」
泣きそうな顔になるノエル。隣の303号室・・・自分の部屋・・・に移動する。
6 アレキサンドライト
新聞もひととおり読んだ黒沢が、「仕事、仕事ーっ」と言いながら出ていく。
入れ違いでSILVER EYEがやってきた。
「おはようございます」
黒沢が座っていた席の向かいに座り、紅茶を頼む。カウンターに戻ろうとする
真子をつかまえて、小さな包みを渡す。
「これを藍さんに渡していただけますか」
「はい。ですけど、何ですか」
「少し早めの誕生日プレゼントです。ブローチとペンダントのツーウェイで
使えます。護身用にね」
首を傾げる真子。
「小ぶりのマウストラップです。もっと早く気づけばよかったんですけど、例の
ねずみ対策です。彼自身は、もう気にしなくていいとしても、似顔絵を見ている
者が妙な動きをしないとも限りませんから」
うなづく真子。
「あまり過保護にもできませんので、「来井 円の秘書を探す者、ひいては来井
円自身を探す者」、限定でつかまえます。効果は2年。2年後の今頃になったら、
その時の状況によって、また描きますので」
「はい。ありがとうございます」
赤井が目を細くして言う。
「SILVER EYEさん、もしよかったら、うちの店にも同様の物を1枚いただけませんか。
思い出したんですけど、黒沢さん、いつも朝食を取る軽食店のことをエッセイで書いた
ことがあるんですよ。つまり、うちです」
SILVER EYEはどうしたものかという表情になる。
「ここには「オーロラたちの饗宴」を置いていますから、それで充分だと思いますが。
いちおう考えておきますね」
7 路上
ほてほてと黒沢が歩いている。
「まだ暑い日があるけど、風は涼しくなってきたねっ」
8 302号室
帰ってきた黒沢はドアホンを鳴らす。が、反応がない。
「忘れてたわ。藍ちゃん、金春さんと打ち合わせに行っちゃったんだ」
自分で鍵を開けて中に入り、「むなしーわ」とひとりごちる。書斎に移動して
パソコンの電源を入れる。
「何か、メールが来てるかにゃ」
旅行会社から、秋冬の旅行案内とハネムーン企画が届いていた。ひととおり
目を通す黒沢。ため息をついて、藍の指定席の椅子を見る。
「今は、ノエルのことが先だよね」
原稿を書き始めようとしたところに、電話が鳴った。プライベートのトーンである。
「はい、黒沢です」
「おじさん? お帰りなさい」
いつもより弱々しいノエルの声がする。
「どーしたの、ノエル。今日、学校じゃなかった?」
「早退したの」
「どうして」
「ちょっと、具合が変で」
「大丈夫?」
「まあ・・・大丈夫だけど」
「今、どこ」
「303号のお部屋です」
「寝てるの? 学校で保健室に行った? 病院は?」
「保健室に行ってきました」
「で、何だって言われた? あ、いいや、隣なんだ。すぐに行くから」
「来なくていいっ!」
急に強い口調で言われ、黒沢は面食らった。
「どーしたの、ノエル」
ノエルは直接には答えず、「藍さんは?」と聞いた。
「金春さん・・・おいらの担当さんと打ち合わせに行ってるんだよ」
「携帯にかけても、留守電だったの」
「打ち合わせ中だからかな。まだ一緒にいるかもしれないから、おいらから金春さんの
方にかけてみるね」
「うん」と弱く応えるノエル。
「藍ちゃんはもうじき帰ってくると思うけど、その間においらができることない?」
「特に、ないの。ごめんなさい」
「そう? 何かあったら、すぐに電話してね。やっぱり、顔を見に行こっか」
「おじさんは、嫌っ」
もう一度、ノエルの声が跳ね上がる。「はいはい」と黒沢は電話を切った。
「そういえば、今朝、ノエルはいつもよりすこーしだけ元気がなかったような?」
9 303号室
ノエルがベッドに横になっている。クリソブレーズの指輪を握っていたが、それを
枕の脇に置いて、「藍さぁん」とつぶやいた。
10 連絡
黒沢が藍に電話をすると留守電モードで、金春にかけたらこちらはつながった。
まだ打ち合わせ中だったので、藍にかわってもらう。
「どうしたの、黒沢さん」
「ノエルが具合悪くなって早退したの」
電話の向こうで藍が息を飲むのがわかる。黒沢はここまでの経過を話す。
「そう。ノエルに心細い思いをさせたわね」
「打ち合わせは、あとどれくらいかかる?」
「もう、終わるところよ」
「気をつけて帰ってきてね。おいらがいるんだから、焦らないで」
電話を切って、すぐに隣にかける。ノエルの部屋はお話し中だった。
「ノエルに、「藍ちゃんと連絡ついた」って教えようと思ったんだけど、藍ちゃんの方が
先にかけたみたいね」
11 リクエスト
およそ1時間後、息せき切ってという風情で藍が帰ってきた。黒沢の部屋には寄らず、
303号室に直行する。ドアホンを鳴らすと、待っていたノエルが速攻で扉を開けた。
「藍さぁん」
挨拶抜きで、藍にしがみつく。
「ただいま。どうしたの、ノエル」
藍はノエルを抱きしめる。そうしながら施錠も忘れない。
「もう大丈夫よ。ごめんね、連絡取れなくて」
「うん。お帰りなさい」
言ってから、気づく。
「おじさんの方は?」
「ノエルが先よ」
ようやく靴を脱ぐ藍。ココア色のノエルの髪を撫ぜる。
「何があったの? 教えてちょうだい」
ノエルはもじもじしている。藍は首を傾げる。
「黒沢さんにあたってたみたいだし、どうしたの?」
「それが、ね」
ノエルは藍の手を取って、自分の部屋にひきずっていく。藍は素直に連れられていく。
手をつないだままベッドに腰かけると、藍も並んで座った。
「あのね、おじさんに内緒にしてくれます? 藍さん」
「場合によるんだけど、ノエル。具合が悪いんでしょう?」
言ってから、藍は、何かに思い当たった表情になる。ノエルの顔を覗き込んで、
「いいわ。多分、直接には言わない。私の考えが当たっていれば」
ノエルはほっと息をつく。
「それで? ノエル」
「あのね」
赤くなって言う。
「お腹が痛くて、血が出ていて、怖くなって保健室に行ったら、先生が「おめでとう」って」
初潮という単語を避けて話す。藍はうなづいて、微笑んだ。
「私も、同じことを言うわよ。おめでとう、ノエル」
「はい・・・ありがとう」
実感がなさそうに応えるノエル。
「なるほど、殿方には話したくないわよね」
「そうですよねっ」
「でも、おめでたいことだから、教えないのは、かわいそうだわよ」
「藍さんの嘘つきい」
「直接には、言わないわ」
藍は苦笑する。
「スタンダードに今夜、お赤飯にして、それで気づいてもらいましょう。ね?」
「嫌あ」
「黒沢さんは、今、お父さんのかわりなんだから、こういう時に内緒は駄目よ」
「だけど」
「お赤飯はいかにも、っていう感じで嫌?」
「そうです」
「それじゃあ、メインはノエルのリクエストをもらって、お赤飯はひとくち程度に、
添えましょうか」
「あ、それならいいです」
今度はうなづくノエル。
「それで、今晩、何を食べたい?」
ノエルが答えようとした時、藍の携帯が鳴った。出てみると、真子からの電話だった。
「仕事中に、ごめんなさいね。あなたに届けるものがあるから、都合のいい時を教えて
欲しいの」
「真子姉さん、ちょうどよかったわ」
「え?」
「こっちも相談があるのよ」
12 ささやかな晩餐会
同夜。仕事を終わらせて303号室のキッチンに行った黒沢は、テーブルの上を
見て目をぱちくりさせた。ひとつの平らな洋皿の上にピラフとスパゲティが半々に
盛られ、その上にトンカツが重なるように乗っていて、ソースがかけられている。
「どーしたの、何これ」
「トルコライス。ノエルのリクエストなのよ」
ノエルから初めて聞いて、慌ててレシピを教わって作った藍が平然と答える。
長崎のほとんどの洋食屋にある定番メニューである。ピラフは塩コショウ味、スパゲッ
ティは具のないトマトソース煮の味、トンカツにはデミグラスソースがオーソドックスらしい。
サラダを別の皿につけることもあるというので、これはノエルの好みでコーンサラダを
添えた。
「トルコライスなのはわかってるけど、さっ。どーしてよ」
黒沢は、ちょこんとテーブルについているノエルを見やる。ノエルはそっぽを向く。
「具合が悪くて早退したんでしょ。食欲はあるの?」
藍は黒沢の質問を無視して、言い放つ。
「仕度はできてますので、席に座ってください」
「藍ちゃーん」
なおもぶちぶちと言いながら、黒沢は座る。と、トルコライス、サラダに加えて、
小盛りの赤飯があるのに気づく。これも質問しようとして、途中で口をぽかんと
開けた。
「あ。あ、あーっ」
「食事中は静かにっ!」
藍が怒鳴ってさえぎる。赤くなって「はいっ」と返事をする黒沢。ごほんとひとつ、
咳払い。
「そっか、そうだったのね。よかった。おめでとさんっ」
ノエルは横を向いたまま応えない。藍は、からっと、「そういうわけですから、安心
してお仕事に打ち込んでくださいね、お父さん」と言った。ノエルが不思議そうに
藍を見る。
「今日、ろくに仕事にならなかったのよ」
「私のせいで? おじさん」
ノエルが体の向きを変える。トルコライスの皿が動き、ガチャッと音をたてる。
「ま、そーいうことです」
きょろりとした目を天井に向ける黒沢。ノエルは焦っている。
「ごめんなさい、おじさん」
「いーよお。スランプで書けない時もあるんだから」
「そうじゃなくって」
助けを求めるように藍を見る。ノエルの視線を受け止めて、藍は微笑んだ。
「ほらね。これだから、内緒にしておくわけに行かないのよ。わかってもらえて
よかったわね」
ノエルはこくりとうなづく。藍はさりげなく言う。
「何か、黒沢さんに言うべきことがあるんじゃない?」
ノエルは改めて黒沢に向き直る。
「ありがとう、おじさん」
「いえいえ」
黒沢はもう一度赤くなっている。藍は場を仕切るように言った。
「そういうわけで、晩餐会と行きましょう。デザートはフルーツの盛り合わせね」
13 宴の後
食事が済むと、ノエルは黒沢に促され、両親あての電子メールを書くために
部屋に戻った。
「藍ちゃん、今日はご苦労さまでした」
皿についたソースを拭き取りながら、黒沢が言う。
「いいえ、どういたしまして」
藍は食器を洗いながら応える。
「だーけどさあ、今日はつくづく、藍ちゃんにノエルのことをお願いしていて、
よかったと思ったよ。おいらだけだったら、どうなっていたことやら」
「それは、そうかもね」
藍はくすりと笑う。
「私自身も勉強不足だったりするけどね」
「えーと、この方面の質問は自重させていただきますです」
「いいわよ。どうしても仕事上、取材が必要になったら、言ってよね」
水の勢いを強くして藍が言う。
「藍ちゃん、自棄(やけ)みたいな言い方、しないでよお」
「気をつけるわ」
そうこう話しているうちに、洗い物が済んだ。「アレキサンドライトのマスターほど
じゃないけどね」と藍がコーヒーを入れる。黒沢が買い置きのクッキーを出す。
コーヒーで乾杯してから、藍が切り出した。
「私も変な話をするけど、いいかしら」
「はあ、どうぞ」
「ノエルの力ね、あれって、なくなるものかしら」
「あん?」
「なくなって欲しいとか、なくなって欲しくないとか、そういう気はないのよ。それには
こだわらないわ。ただ、今日、ノエルに体の変化が起こったでしょ。どうなのかなって
思って。これで力がなくなるとか、強くなるとかって、あるのかしら。あるいは、結婚し
たら、とか」
真剣な表情で藍は話している。黒沢はそんな藍の表情をじっと見る。
「藍ちゃんは、どーしてそれを気にかけるの?」
「どうなるのが、ノエルにとって一番いいことなのかなって、気になって。考えても
仕方ないことかもしれないけど」
「うん。いいことかどうか判断するのは、ノエルだしね」
「そうね」
藍は静かにコーヒーを飲む。黒沢は藍に合わせるように、静かに言った。
「たぶん、なくならないと思うよ、ノエルの力。結婚とか、出産の影響もないと思う」
「どうしてそう思うの」
「ノエルのおばあちゃんがそうだから」
藍は目を見開いた。
「長崎の、ノエルの母方のおばあちゃんも、同じ力があるんだよ。ただ、その人は
水晶球を見るんでなくて、静かな水面を見て、いろいろわかるんだけど」
「ちょっと、どうなってるのよ」
藍の語気が荒くなる。
「ノエルのことを知ってるのは、両親とおいらと親戚が数人って言ったでしょ。その
数人が長崎のおじいちゃん、おばあちゃんなのよ」
藍は、ふっと肩の力を抜く。
「私が気にかけなくても、頼りになる人は大勢いるわけね」
ほっとしたような、寂しいような表情になる。
「んー。そうとも言い切れないんじゃない? 今、一番ノエルの近くにいるのは藍ちゃん
なんだから」
黒沢は、敢えてのんびりと言う。
「今日だってさ、ノエルはおいらが言うまで親にメール書くのを忘れてたよ。真っ先に
電話をかけたのも藍ちゃんのところだし、頼りにされてると思うな」
「そう?」
やや気を持ち直したように藍が笑う。
「あとね、長崎のおばあちゃんが言うには、ノエルの方が力が強いってさ。だからどう
ってことじゃないけど、ねっ」
うなづく藍。
「だけど、どうして親でない黒沢さんがそれを知ってるの」
きょとんと、黒沢が答える。
「なんだか知らないけど、教えてもらえたんだよね。おいらは別に、力なんてないのにさ」
「平凡な独身の30男なのに?」
からかう口調で藍が言う。
「教わった時は、まだ30代になってなかったけどにゃ」
コーヒーを飲み干した2人は、なんとなくいつもの調子を取り戻した。
「ごちそうさまでした。そんじゃ、おいら、部屋に帰るね」
「おやすみなさい。また明日ね」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
14 数日後 黒沢の書斎
日曜日。曜日に関係なく、黒沢が原稿を打っている。すぐ脇で藍が我孫子武丸の
「メビウスの殺人」を読んでいる。腕時計を見た藍が黒沢に言った。
「そろそろ時間だから、移動しません? 先生」
「ほーい、了解。だけど、先生は勘弁してね」
15 来客
303号室。ノエルが雲の上を歩くような足取りで居間の中を歩き回っている。藍が
花瓶の花のバランスを直している。黒沢はVAIOで仕事の続きをしていた。
「黒沢さん、いい加減にストップしたら? もう来るのに」
「だけどさあ、今、調子いいんだもん」
「まあ、仕方ないかしらね」
藍が肩をすくめた時、ドアホンが鳴った。ノエルがさっと出ていこうとする。
「ノエル、新聞の勧誘かもしれないわよ」
藍がインターホンで確認する。
「オッケー。お迎えにいってらっしゃい、ノエル」
「はいっ」
ノエルがドアを開ける。藍とよく似た女性がにこやかに立っている。
「こんにちは」
「いらっしゃい、藍さんのお姉さん」
「真子姉さん、いらっしゃい」
ノエルの後を追った藍も言う。真子は、藍の胸元に揺れるペンダントを見てうなづく。
「お邪魔するわね、藍」
「どうぞどうぞ、こちらでお招きしたんだから」
わくわくとノエルが真子にまとわりつく。視線は、真子の手元のケーキ箱に注がれて
いる。気づいた真子は箱をノエルに手渡す。
「あまり慣れてないけど、納得できる出来上がりになったのよ」
「はいっ」
にこにこと受け取るノエル。
「ノエル、御礼は?」
「ありがとう、お姉さん」
ぺこりと頭を下げるノエル。
「いいえ、どういたしまして」
真子はノエルを見て微笑む。アレキサンドライトでの笑顔より、やわらかい。藍に
向かって言う。
「この子がきっかけでバームクーヘン嫌いが直ったんでしょう? これくらいの御礼なら、
喜んでさせもらうわ」
「姉さん、恥ずかしいからそれはなしにしてよ」
「そう?」
母親のような微笑み方で、真子が応える。3人で居間に向かう。黒沢はまだ原稿を
打っていた。
「やっほう、いらっしゃい、真子ちゃん」
「こんにちは、黒沢さん」
「もう、黒沢さんってば、いい加減にしてよね。仕事は仕事、遊びは遊びって切り換えて
頂戴」
「おいらの秘書さんにしては、珍しいお言葉」
「メリハリをつけるのは、当然でしょ」
「そりゃそうだけど、さっ」
「お姉さん。開けていいですか?」
「どうぞ、ノエルちゃん」
黒沢はようやくVAIOの電源を切る。
「いやぁ、アレキサンドライト以外で真子ちゃんに会う事がないもんだから、照れちゃ
って、さっ」
藍の眉が片方上がる。
「つまり、緊張から逃れるためと照れ隠しに仕事に没頭していたわけ?」
「あー、うー、否定しませんです」
「小心な、かわいい雇い主さんですこと」
藍たちの会話をよそに、ノエルはケーキ箱を開けている。チョコレートでコーティング
されたケーキを見て、「わあっ」と歓声を上げる。
「中身はバームクーヘンよ」
にっこりと真子が言う。バームクーヘントルテ。心棒に生地を流しかけながら一層ずつ
焼き上げる本来のバームクーヘンに対して、こちらは型を使って生地を薄く伸ばして
焼くことを繰り返し、平たく仕上げる。ノエルの「お祝い」に、藍が真子に頼んでいた。
「姉さん、手間かけさせたわね。私が焼けばよかったんだけど、自信なくて」
「楽しかったわよ。さすがに、アレキサンドライトのメニューに入れさせてもらう気力は
ないけど」
「真子ちゃん、いろいろ作るのね」
「好きですから」
4人でお茶会となる。ノエルが入れたミルクティーを飲みながら、黒沢が言う。
「真子ちゃん、アレキサンドライトの方は、今日はいいの?」
「午後からお休みをいただきましたから、いいんですよ」
「マスターは一人で頑張ってるのね」
黒沢はバームクーヘントルテに舌鼓を打つ。
「おいしい。いっそ、午後から休業にして、マスターもくればよかったのに」
「赤井さんは、なるべくお店を開けておきたい人なんですよ。お客様が空振りしない
ようにって」
「でも、アレキサンドライトって常連さんメインだから、事前に張り紙するとか、言う
とかしておけば大丈夫そうなのにね」
「飛び込みの方もいらっしゃいますよ。そこまで考えに入れて、ね」
「熱心なのね」
素直にうなづく黒沢の隣で、藍は黙って聞いている。特に動作はないが、充分に
納得している表情である。ノエルはノエルで、ケーキに夢中になっていた。
16 同時刻 アレキサンドライト店内
ドアに「準備中」の札をかけ、赤井は「横浜のカメラマンに聞いてきた」客の話を
聞いていた。かすかに眉をよせている。真子ならば、それが赤井の悩んでいる顔
だとわかるところである。客の話が終わる。話し疲れた客は、目の前のコーヒーを
ぐったりと飲む。赤井は、相手がひといきつくのを待ってから言った。
「それで、お客さま。確認しますが、これが違法行為なのはわかっていますね」
「ええ」
「それでも、気持ちを押さえきれない、手に入れなければ気が済みせんか」
「そう・・・です」
「それができなければ、これからの人生の歩き方を間違えそうな程?」
涙目でうなづく客。赤井は、歯切れ悪く言った。
「今、ここでお受けしますと言いたいところなのですが 、少々時間をください。
申し訳ありません、改めてもう一度お越し願えませんか」
17 ブルーサファイア
黒沢たちがお茶会をしているうちに、話しは宝石のことに移っていた。
「9月の誕生石って、ブルーサファイアだったよねえ」
3杯目のミルクティーを飲みながら黒沢が言う。
「そうですよ」
真子がうなづく。
「藍ちゃんの誕生石だあ」
「そういうことね。それが、何か?」
冷静に藍が尋ねる。
「別に何でもありません」
黒沢は藍のペンダントを気づかわしげに見る。
「ここんとこ、それがお気に入りなのね
小さな楕円形のキャンバスに青い絵の具が塗られている。中央から、かすかに
青みがかった光が六条に放たれている。
「ええ。スターサファイアもどきだから。それも、青いスターの浮かぶね」
機嫌よさそうに藍が答える。
「宝石でなくて、絵なんだね」
「そうよ」
「どこで見つけたの、藍ちゃん」
「アレキサンドライトの常連の画家さんがくださったのよ。あの人の作よ」
「うーっ、やっぱし」
テーブルにつっぷす黒沢。
「そういう特技があるっていいよなぁ。オリジナルで、人に喜んでもらえるものを
作れるんだもん」
「文章で架空の世界を構築する人が、何言ってるんだか」
藍が肩をすくめる。真子はくすっと笑う。ノエルは3人の顔を交互に見ている。と、
そこへ電話が鳴った。藍が出る。
「はい。・・・あ、こんにちは。・・・真子姉さん、アレキサンドライトのマスターよ」
真子が変わる。二言、三言話し、「わかりました」と言って電話を切った。
「どうしたの? 姉さん」
「真子ちゃん、お店に団体さんが来て、急遽戻ってくれとか言われた?」
「いえ、そこまでは。ただ、お茶会が済んだら、ちょっと寄って欲しいって」
18 数時間後 アレキサンドライト
「準備中」の札がかかり、店内に赤井と、黒沢たちのところから戻ってきた真子が
いる。
赤井の話を聞き終えた真子は、視線を落として言った。
「私から藍に話してみます。すみません、赤井さん」
19 数日後 横浜
昼近くの時間。横浜市営地下鉄の「センター北」駅で降りた黒沢は、エスカ
レーターを昇って改札口に向かった。
「地下鉄なのに、線路やホームが地上にあるとは、これいかに」
すぐ後ろで藍が言う。
「たまたまそういう区間に乗ったんじゃない?」
「だろうね。横浜にあるって聞いてたから、てっきり横浜駅か関内、桜木町辺りかと
思ったよん」
「ここも横浜市なのよ」
「横浜、横浜」
脇の階段を駆け上がりながら、ノエルがうきうきと言っている。
「ノエル、転ばないでね」
「はーい、藍さん」
改札口を出ると左側に百円ショップがある。ノエルが興味津々という顔になるが、
藍が「後でね」と諭す。駅前広場に出る。左手に巨大なショッピングセンター、モザイク
モール港北・都築阪急があり、屋上で赤い観覧車が回っている。
「このまま真っ直ぐ進んで、駐車場の向こうの道を渡ったところよ」
「藍さん、先に行っていい?」
「道を渡らないで待ってるならね」
ノエルは「渡らないっ」と言い置いて、走って行く。黒沢と藍はゆっくり歩いて進む。
「よろしくお願いしまーす」と、若い女性が黒沢にパンフレットを渡す。新築マンションの
入居者募集である。歩きながらパラパラとめくってみる黒沢。
「どーいうことなんでしょ」
「私たち、新婚に間違われたんじゃない?」
淡々と藍が受ける。「そーかもねっ」と、黒沢がこれまた淡々と言葉を返す。
「ノエルが先に行ってなかったら、どーなってたんでしょ。それでも新婚に見られたかにゃ」
「むこうも、渡そうかどうしようか迷ったかもしれないわね」
黒沢はくしゅんとくしゃみをした。駐車場の端では、ノエルが2人に手を振っている。
20 レジオン
駐車場の道路を隔てた向かいにあるレジオン。フランス語で「地方(Région)」の意味で、
喫茶もできるケーキ・パンの店である。藍が以前、真子にフィナンシェを頼んだ店でも
ある。藍は今日もさっそく、フィナンシェを探した。
「売り切れだわ」
焼菓子のコーナーで残念そうに言う。
「まっ、そーいうこともあるんじゃない?」
のんびりと黒沢が言う。
「そうね。この次は電話で予約しておくわ」
オープンカフェとカウンターもあるが、藍は、黒沢とノエルをテーブル席に誘(いざな)った。
パリの地図が張ってある前を通り、壁ぎわの席に陣取る。ウエイターが水とメニューを
持って来る。
「藍ちゃーん、それでもって、おすすめは?」
「食事するなら、レジオンサンドね」
チェダーチーズ、レタス、トマト、きゅうり、卵をサンドして、特性みそマヨネーズを
加えている。パンは特製で玄米と8種類の穀物の入ったレジオンのオリジナル
田舎パンで、しっかり焼き込んである。黒沢はコーヒー、藍とノエルは紅茶で
食べる。ノエルが少し固いと言うが、それでも満足げによく噛んでいた。
「学校の創立記念日でよかったわね、ノエル」
「はいっ」
こっくりとうなづくノエル。
「お祝いにくっついてきちゃいました」
「私も嬉しいわよ。誕生日祝いをしてくれる人が多い分にはね」
「おいら、2人分くらいは奢らせていただきますです」
「ごちそうになりますわ、黒沢さん」
「今日は先生じゃないのね」
黒沢は嬉しそうである。
食事が済んでデザートを頼む。藍は、迷った様子で言う。
「おすすめは、ここのオリジナルのピュイ・ダムールだけど、ノエルは違うものの方が
いいかしらね」
「どうして?」
ノエルはきょとんとする。
「ノエル、パイ生地が苦手でしょう。外側がそれなのよ」
ノエルは首を振る。
「ううん、藍さんのと同じのでいい。嫌いなほどじゃないから」
「無理しないでね」
「大丈夫っ」
黒沢もつきあい、ピュイ・ダムール3つが注文される。手のひらサイズのコイン型の
菓子。上の面はやや盛り上がっている。一日限定30個の品で、持ち帰りができない。
パイ生地で作られた焼き型にクリームピュイ (生クリームとカスタードクリームを混ぜ
たもの) をたっぷり詰めてキャラメリゼ (ざらめ砂糖をバーナーなどの火であぶって
焦がしてキャラメル状にする) してある。クレームブリュレやシブーストに見られる手法
である。注文を受けてから上にキャラメルを塗る。フォーク、ナイフが添えて出されるが、
「よかったら手でどうぞ」と言われる。
「どーしてなんでしょ」
「ナイフで切ろうとすると、中のクリームが出てしまったり、お菓子そのものがお皿から
飛び出しかねないからよ」
勧めに従って手づかみで食べる3人。
「前は、もっと底のパイ生地が薄かったけど、厚くなったのよね」
藍が解説する。
「美味だにゃ。何て言うかさー、上のキャラメリゼがパリパリしてて、中のクリームが
柔らかくてさ、この口当たりの違いが面白いや」
「パイ生地はちょっと苦手って思ってたけど、おいしいです」
お世辞事抜きで黒沢もノエルも感想を言う。
「そう?」
ほっとした藍は紅茶の追加を頼んだ。
21 同日 夕方 アレキサンドライト
お茶の時間と夕食の時間の合間、客足の途絶えがちな時間帯に、黒沢、藍、
ノエルの3人が店に入っていった。赤井と真子が「いらっしゃいませ」の二重唱で
迎える。
「こんちゃー」
「こんにちはぁ」
「こんにちは、マスター、真子姉さん」
黒沢は元気に指定席につく。ノエルがその正面に座る。
「朝、来なかったから、かわりにガーリックトースト、ちょーだい。で、コーヒーも」
「マスターさん、ホットケーキとココアください」
「はいはい」と赤井が愛想よく応える。赤井は黒沢、ノエルの話し相手になり、「へえ、
横浜に行ったんですか」などと言っている。藍は席につかず、カウンターの真子の元へ
行った。
「黒沢さんたち込みになったけど、来たわ。話って?」
「ここじゃ、話しにくいから・・・赤井さん、奥の部屋、お借りします」
22 ブルーサファイア2
真子と藍は、カウンターから店の奥、住居部に移る。赤井家の居間で、デスクトップ型の
パソコンを横目に、応接セットにななめ向かいになって座る。
「この間、バームクーヘントルテを作って遊びに行った時、ここに夜間営業のお客さまが
みえたのよ」
「ふうん」
「その依頼内容なんだけど」
「私の手がいるほど、大変?」
「いいえ、そうじゃないのよ」
藍の目を見て、静かに言う。
「ご希望のお品が、ブルースターなの」
藍が無表情になる。
「詳しく言わなくてもわかるわよね。今、私が預かってるレッドスターの色違いの兄弟。
そして、あなたの保険」
「そうね」
無表情のまま、藍は応える。
「銀座の宝石店の看板ジュエリーになっているけど、これをお客さまにお渡ししたら、
あなたがどうしても欲しくなった時、手が出せなくなるわ」
「私に、依頼人が誰なのか、教えるわけにいかないものね」
「ええ」
ブルースターは、青いスター効果のあるブルーサファイアである。SILVER EYEが藍の
誕生日に贈った絵の構図は、これに酷似している。
赤井が居間に入ってきて、言葉を添える。
「まだ依頼は受けてないんですよ。今ならまだ、断ることはできます。どうする? 藍ちゃん。
それとも、昔の通り名のブルーサファイアって呼ぼうか?」
「名前でいいわ、マスター」
応えた藍は、心配そうに見ている真子と赤井を見返す。やがて、藍はくつろいだ表情に
なって言った。
「黒沢さんとノエルの面倒を見るのにてんてこ舞いで、落ち込んでいる暇なんてないの。
あれが必要になる時は、多分来ないと思う。いいわ、ブルースター、依頼者にあげて」
赤井と真子が肩の力を抜く。それでも念を押すように聞く。
「藍ちゃん、いいんだね」
「大丈夫なのね、藍」
藍は苦笑する。
「信用してよね」
赤井たちはほっとした顔になる。藍は立ち上がる。
「話しはこれだけ? だったら、お店の方に戻るわ。それと、ごめんね。私は手伝えないわ。
万一のことが起こった場合、黒沢さんとノエルに与える影響を考えるとね」
「わたしたちだけでやりますよ、藍ちゃん」
「あなたは、もうやめた人だもの。引きずり込みはしないわ」
うなづく赤井と真子。居間を出ようとして藍は「そうだ」と振り返る。
「あのお店、昔やったことがあるけど、セキュリティが厳しいわよ。気をつけてね」
「ええ、気をつけます」
「ありがとう、藍」
23 ピースの納まる位置
藍が店内に戻ると、黒沢は2杯目のコーヒーを飲んでいるところ、ノエルはセンター北
駅前の百円ショップで買ったジグソーパズルをやっているところだった。白いうさぎと
ブルーグレーのうさぎが仲良く並んでいる構図である。昼寝する黒うさぎや上を見上げ
るアメリカンショートヘアの子猫も買い込んであるが、それらは袋の中にしまってある。
ちなみに、博へのお土産に拳銃と補充用の弾も買ってあった。
「ここに居すわっちゃ駄目よ、ノエル」
藍は優しく諭す。
「はーい、藍さん」
ぺろりと舌を出すノエル。
「黒沢さんも、昼間出かけた分、書かなきゃね。私のために出かけてくれたわけだけど」
「ほーい、藍ちゃん」
藍は、後から戻ってきた真子に、にこりと言った。
「もしも落ち込んだ時には、お願いするから焼いてよね、バームクーヘントルテ」
第6話 終わり
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