「水晶の向こう側」 (第5話)
第5話 「8月・・・マーメイド・ブルー」
1 軽食店 アレキサンドライト
黒沢が、いつもの席で食事をしている。
「真子ちゃん、コーヒーおかわり、ちょーだい」
「はい」
真子は3杯目のコーヒーと一緒にサービスで一口ゼリーを出す。
「どうぞ」
「あんがと、ねっ」
8月に入ってもホットで飲み、「おいしーね」とカウンターの赤井に声をかける。
「ありがとうございます」
赤井は目を細くしてお辞儀をする。
「ねえ、マスター、やっぱし、お盆は休むの?」
「世間並みに、それなりにお休みをいただきます」
「かなしーっ」
「開けてても、お客さまが見えませんからね」
「おいらがいるのにい」
真子が通路に立ったままで口をはさむ。
「夏休みの間に、ノエルちゃんを連れて旅行に行かれたりしないんですか?」
「うーみゅ。考え中なんだよね」
コーヒーをがぶりと飲みながら答える黒沢。
「芹が谷のおじさんたちがこっちに来れれば、ノエルと一緒に出かけるだろうけど、
難しいらしいんだよね。かといって、ノエルが行けばってことになると、本人が行き
たがらないし」
「あら、どうしてです」
「よく、わかんない」
一口ゼリーをぱくりと食べる黒沢。
「おいらと藍ちゃんと3人でなら行くけど、自分だけでおじさんたちのところに遊びに
行くのは嫌だって」
「余程好かれてるみたいですね」
くすくす笑う真子。
「嬉しいことは、嬉しいけどね」
黒沢は、いつもより少し空きのあるテーブル上を見て言う。
「あ、なんかお腹が膨れてないと思ったら、アップルパイを頼んでなかったじゃ
ないの。一切れちょーだい、真子ちゃん」
2 「お客さま」
黒沢が出ていったのと入れ代わりに、新しい客が入ってきた。夏らしく、イルカを
描いたTシャツを着ている。水を持っていった真子に、ハーブサラダとハヤシライス
を頼む。
「はい、かしこまりました」
「ところでね、ウエイトレスさん」
客はついでというように尋ねた。
「この店は、夜になるとメニューが変わるんですか。アレキサンドライトっていう名前
だけど」
真子はにっこりと答える。
「いいえ、同じですよ。夜は早めに締めますし」
「変だなぁ。横浜のカメラマンに聞いてきたのに」
カウンターから赤井が声をかける。
「そういうことでしたら、ご相談に乗りますよ」
3 夏の予定
黒沢が302号室のインターホンに向かってしゃべっている。
「ただいまー。藍ちゃん、開けてーっ」
「はーあーいっ」
鍵が開けられ、チェーンがはずされる。中に入りながら黒沢が言う。
「相変わらず、用心深いのね」
「湊鼠さんのホームページがなくなっても、泥棒も押し売りも消えはしないから」
「はい、わかりました」
前後して書斎に移動する。
「そんで、なにかあった?」
パソコンの電源を入れながら黒沢が尋ねる。
「電子メールが2通ね。1通は、旅行会社からで、お盆向けの企画案内。もう
1通が金春さんから。用件は2つ」
「なんでしょ」
「「プレゼント」の4作目、「「や」のつくお仕事」の反響が結構あったんですって」
「ほーん?」
「大別して、「小説家をやめるんですか」っていう質問と「やめないで下さい」っていう
懇願のどっちかが来てるそうよ」
「作品とおいらの心境をごっちゃにしちゃあ、いけないねえ」
あははと笑う黒沢。
「全然、別のものなのに」
「真面目な読者さんたちが反応したのかしらね」
「で、金春さんのもうひとつの用件は?」
藍はウインクして言った。
「素敵なホテル生活・缶詰体験のご招待」
「なによ、それーっ」
「まあ、聞いてよね」
黒沢をパコソンデスクの椅子に座らせ、自分もそばの椅子にかけて、藍は説明する。
「浅葱出版が関係してるホテルとの合同企画で、作家の先生方への慰労と競作依頼を
同時にしようっていうものなの」
「そういう風に言われると、なんとなく見当がつくんですけど」
「横浜に新しくできたマーメイドホテルに、浅葱出版がお世話になってる作家さん何名かを
ご招待してね、滞在中、ホテルを題材にした小説なり戯曲なりエッセイを書いていただきた
いというものなのよね」
「PR策なのね」
「そういうこと。いつもマンションで書いてる黒沢さんだけど、たまに環境を変えてみるのも
いいんじゃない?」
「やっていいなら、おいらはアレキサンドライトに根っこ生やして、3食食べたいけどね。
マスターたちに迷惑だろうから、そこまではやんないけど、さっ」
「ちなみに、作家先生だけでなく、ご家族もご一緒にどうぞって。夏休み企画でもある
のよ。ノエルを連れて、泊まってくれば?」
「藍ちゃんを除け者にするわけに行かないでしょー」
「私を連れて泊まり込みなんて、黒沢さんの方針に合わないでしょ?」
「おいらで1部屋、藍ちゃんとノエルでもう1部屋にすればいいじゃない。金春さんに
かけあってみるのも、手だよ」
藍はおかしそうに笑った。
「金春さんも、その辺は見越しててね、3名様2部屋で押さえますけどって、書いてるわ」
黒沢がどっちらける。
「だったら、先に言ってよねー、藍ちゃん」
藍は涼しい顔で言う。
「ノエルは友だちとプールに行ってるから、帰ってきたら、彼女の意向も聞いて
みましょうね」
4 依頼受付
同時刻の軽食店アレキサンドライト。「準備中」の札をかけ、赤井と真子は「横浜の
カメラマンに聞いてきた」客の話を聞いていた。
「お話はわかりました」
赤井は、客の話が終わってから言った。
「念のためにお伺いしますが、これが違法行為なのはわかっていますね」
「はい」
泣くのをこらえて、客はうなづく。
「それでも、頼まずにはいられませんか? このまま我慢していたら、それに引きずられて、
一生の歩き方を間違えそうなほど?」
「はい」
「それでは、お客さまがこういうことを依頼されるのは、一生でこの一度きりということを
お約束していただけたら、受けましょう」
客は恐る恐る赤井に聞く。
「まさかとは思いますけど、また、こんな堪えがたい苦しみに出会ってしまったら?」
真子が引き取って答える。
「そのお気持ちを慰めるために、ここの普通のお客さまとしていらしてください。元々、
夜間営業は昼間のお食事だけで満たされないものを補うためにありますので」
「軽食店って、隠れ蓑じゃないんですか?」
意外そうに聞く客。
赤井は胸を張る。
「そうです。うちは、メインの仕事は軽食なんです」
とまどった客は沈黙した。赤井は静かに待っている。真子はさりげなくクッキーを
出す。先に出された赤井自慢のブレンドのコーヒーと併せ、客は気持ちを整頓
するために、口に運ぶ。やがて、落ち着いた表情になって客は言った。
「一生一度で、お願いします」
赤井が目をきゅっと細める。
「お受けします」
まもなく、客は出て行った。真子は準備中の札をはずしながら言う。
「ご依頼の品はペリドット、別名イブニング・エメラルド。8月の誕生石ですね」
赤井はコーヒーカップを洗いながら応える。
「そうだね。さて、今年は風邪を引かないようにしなきゃ」
真子は複雑な笑みを浮かべて、「オーロラたちの饗宴」を見やった。
5 数日後 マーメイドホテル
午後3時。きちんと朝から一仕事した黒沢と、藍、ノエルの3人が、正面玄関から
ロビーに入ってきた。感嘆の声を上げながら辺りを見回す。
「雰囲気、いいねえ」
「豪華なんだけど、こっちが恐縮しなくていい、包み込んでくれる感じね。落ち着くわ」
「新しくて、きれい」
それぞれに感想を述べる。壁や調度は青と緑、白をメインにした色彩で統一され、
海の中を演出している。3人は弾む足取りをどうにか押さえながら、フロントへ行く。
「チェックインはおいらがするの?」
「ノエルと私の分は書くわよ」
「黒沢、朱鷺の森、芹が谷。考えてみれば3人とも名字が違うんだよねー」
藍は苦笑する。
「そうだわね」
フロントは、2人の会話はまったく気にしない素振りで、それぞれにキーを渡した。
「ご案内いたします」
ベルボーイが荷物を持って先導する。エレベーターホールに向かう途中、吹き抜けの
喫茶コーナーを横切る。と、ノエルが目敏く言った。
「絵が飾ってある!」
聞いた黒沢と藍が絵の方に目を向ける。ホテルの基調と同じ色、青、緑、白をバックに、
髪を下ろしたブルーパール (白の混ざった淡いブルー) のロングドレスの女性が描かれ
ている。
「これって」
「この画風は」
黒沢と藍が絶句したのを見て、ベルボーイはそつなく言った。
「描かれたのはSILVER EYEさんと言う方です。モノクロがメインだった方ですが、1年程
前から彩色画も描かれるようになったそうです」
何か言おうとするノエルの手を、藍がきゅっと握る。言葉を飲む込むノエル。
「きれいな絵ですねー。タイトルは何ていうんですか」
平静を装い、黒沢が尋ねた。ベルボーイはこれまた、よどみなく答えた。
「「幸福(こうふく)な人魚姫」です」
6 絵画鑑賞
荷物を置いて一段落してから、黒沢たちは絵のところに戻った。しみじみと「幸福
な人魚姫」を見る。
「こんなところでSILVER EYEさんの新作を見ることになるとは思わなかったにゃ」
「モデルはやっぱり、真子姉さんだわね」
「うん。この微笑み方は、真子ちゃんだね。珠子さんは、あんまり会ってないけど、
この絵と印象が違うもん」
「と、いうか、そんな詮索自体、無意味だわね。あの画家さんなら、モデルは真子
姉さんに決まりよ」
「藍ちゃん〜」
黒沢が恨めしそうに藍を見て、こっそりノエルの方を指す。肩をすくめる藍。
「藍さんが絵の人に似てるって、ベルボーイさん、言わなかったですね」
2人の動作に気づかなかったノエルが言う。
「似てるって思っても、言わないように礼儀はたたき込まれてるだろーね」
「他人の空似と思ったかもね。モデルの妹だけど」
言ってから、3人はまた絵に向かう。やがて、黒沢が結論を出すように言った。
「経緯やモデルはともかくとして、さっ。いい絵だと思うよ。おいらは好きだにゃ」
「それは、ありがとうございます」
3人のすぐ後ろで、若い男性の声がした。飛び跳ねるように振り返る黒沢。藍は
冷静に、ノエルはうきうきと振り返る。SILVER EYEが、いつもの如く、品のいい
微笑みを浮かべて立っていた。
「SILVER EYEさん、どこから湧いて出てきたのよっ」
「黒沢さん、僕は虫ですか」
「真子ちゃんから見たら、虫さんかもよ」
ぼそっと言う黒沢。
「は?」
笑顔で聞き返すSILVER EYE。黒沢は「うんにゃ、気にしないで」と言いつつ、「真子
ちゃんからでなくて、緑屋さんからか」と、まだ口の中でぶつぶつ言う。
「泡になって消えてしまう人魚姫のモデルに、よくも姉を使ってくれたわね、画家さん」
黒沢が口ごもった隙に、藍が割って入る。
「お話しはきれいでも、縁起でもないわ」
「タイトルをよく見てくださいよ、藍さん。「幸福な人魚姫」でしょ?」
にこやかに切り返すSILVER EYE。
「そこまでの説明は、まだ聞いてませんか? オーダーされた時のコンセプトが、
「アナザーバージョンの人魚姫」なんですよ」
「どういうことよ」
「おとぎ話しでは、人魚姫は声をなくしたかわりに人間になりましたよね。ですが、
ホテルオーナーの考えたストーリーは、「魔女に諭されて、人魚として一生を送る」
というものなんです。それなりに、幸せに。そして、のちに人間に生まれ変わって・・・
人魚の時の記憶はなくなっています・・・今度も幸福に生きるというものです。王子と
結婚したかどうかまでは、話を決めていないそうですが。その、人間の時の絵を描い
て欲しいと言われまして。僕もいいなと思ったので、受けました」
藍は、目をぱちくりする。
「新作の人魚姫だわね」
「新しいホテルなので、新しい物語を作って行きたいと。そういう意気込みでいらっ
しゃいました」
「ふうん。それなら、勘弁してあげる」
「ありがとうございます」
にこりと微笑むSILVER EYE。
「あの、こんにちは」
ノエルがようやく、口をはさむ。
「こんにちは、ノエルさん」
SILVER EYEはノエルにきちっと礼を返す。黒沢も気を取り直した。
「今更、こんちゃ、SILVER EYEさん。で、どーして突然現れたのよ」
「新作のご案内をしたい方がいましたので」
「ご贔屓さん?」
「ファンの方ですよ」
「おいらたち、お邪魔かしら」
「そんなことはありませんよ。ゆっくり、見ていかれてください。ここはホテルですし」
「画家さん、あなたは泊まっていくの?」
「立ち寄っただけです。それで、みなさんはどうして?」
黒沢たちはホテルに来ている理由を話し、お茶を飲むために絵の前を離れた。
「そろそろ時間かな」
黒沢たちを見送り、腕時計で時間を確認したSILVER EYEが玄関ホールに向かう。
すでに来ていた元・取締役、絵画「アレキサンドライト」の持ち主がSILVER EYEに
気づいて手を振る。にこやかな笑顔である。SILVER EYEもそれに応えて会釈した。
7 バームクーヘン
お茶を飲んだ後、黒沢たちはホテル内の売店に来ていた。ホテルのロゴ入りお土産
品に加えて、衣類、食品類も並んでいる。
「バームクーヘンがあるっ」
食品コーナーでノエルが歓声を上げた。言ってから、ノエルは藍の顔色を窺う。
「藍さんは、バームクーヘンって、好きじゃなかったですよね」
藍は無言でノエルを見返す。
「藍さん?」
藍は、憂いを含んだ表情でノエルを見ていた。
「ホテル滞在で気分が高揚してるもの、欲しくなるわよね」
藍はノエルの頭を撫ぜてから、黒沢を見る。
「そういう気持ち、黒沢さんにもわかるわよね」
「それは、買ってあげていいって意味かにゃ、藍ちゃん」
「許すのは私じゃないわ。保護者は黒沢さんよ」
「直接、ノエルの面倒を見てくれてるのは藍ちゃんなんだけどなっ」
藍は顔をこわばらせて言う。
「ここは、私としては黒沢さんに判断して欲しいわ」
「藍ちゃん?」
黒沢は、藍の表情をさりげなく観察し、首をかしげ、視線をはずした。黙ってバーム
クーヘンを手に取り、賞味期限などを見る。やがて、藍が堪えきれないように言った。
「買ってあげてよ、ね、黒沢さん。お願いだから」
黒沢は、きょろりとした目をさらにきょろりとさせた。自然な口調で言う。
「はい、では喜んで」
「わーいっ、おじさん、ありがとう」
2人の様子を見ていたノエルは、ことさらに声を高くして喜んだ。藍は、少しかがんで
ノエルに言った。
「夕御飯はこれからだから、食べる量はほどほどにしましょうね。それと、私にも
一切れくれるかしら」
8 同夜 絵の前
ノエルを寝かしつけた藍が、部屋から出てホテル内を散歩していた。あちこちを
回った末、「幸福な人魚姫」の前に出た。藍はじっと絵を見る。と、後ろから、「藍ち
ゃん、おばんです」と声をかけられた。黒沢である。
「こんばんは、黒沢さん。考えてみれば、こういう挨拶をするのって珍しいわね」
「そうだねえ。ノエルは?」
「ベッドに入ったわ。寝息をたて始めたから、ちょっと出てきたの」
「いつもいつも、ご苦労さまです」
藍に頭を下げる黒沢。
「休みの日は適当にノエルと相談して休んでくれってことだったけど、藍ちゃん、
実質はお休みなしになってたでしょ。昼間はおいらがお世話になってるし、晩は
ノエルの方があるしで。ほんと、ごめんね」
「それだけのお給料はいただいてるから、いいわよ。それに、嫌だったら、とっくに
おひまをいただいてるわ」
「藍ちゃんは、たとえ嫌になっても、ノエルを契約期間の途中で放り出す人だとは
思えないけどねっ」
「そう? 嫌々やってる人間に面倒を見られたら、あの子だって可哀相よ。そうなったら、
身を引きますから」
「ほーい」
「でも、その心配はいらなそうね」
「12か月のうちの5か月、仲良く来たもんね」
「そうね」
なんとなく、笑い合う。黒沢がにこにこと言う。
「そんでさ、藍ちゃん、ホテル内にラウンジバーがあるから、行かない? ノエルは
安全でしょ?」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
9 ラウンジバー
夜の海が見えるテーブルに、黒沢と藍が腰かけている。黒沢はレッドアイ、藍は
ベリーニを飲んでいる。
「何か、構想のヒントは見つかった?」
ピーチ・ネクターとグレナデン・シロップ、スパークリング・ワインがミックスされた
カクテルを飲みながら、藍が尋ねる。
「んー。トリックとかはまだだけどね、登場人物は、ある程度」
「どういうの?」
「おいらと藍ちゃんとノエルの3人で、探偵チームにしようかと」
「あらあら」
「で、ここに泊まってる間に。事件が起こるんだわ」
「あまり物騒なことにはしないでよね」
「コミカルな展開に努めますです」
黒沢は二日酔いに効くと言われる、トマトジュースとビールをミックスしたカクテルを
飲んでいる。ラウンジの雰囲気に酔うのを楽しみ、同時に、その一杯で酔いを冷ま
したような表情になる。
「ところでさ、藍ちゃん。売店のあれ、何だったの?」
「え? 何の話し?」
藍のグラスを持つ手が一瞬揺れる。
「ごまかすんじゃないのっ。ノエルがバームクーヘン欲しがった時、藍ちゃんの
様子、おかしかったよ」
「そうかしら」
「そうだよっ。秘書さんの様子がおかしいことくらい、わかるってばぁ」
「さすがね、先生。でも、人に話したくないこともあるのよ」
そっぽを向く藍。黒沢はテーブルの上にうつ伏せ、首を曲げて藍を見上げる。
「攻め方、間違えた。藍ちゃん、ごめん。お仕事の関係から離れる。ねえ、おいら、
お友だちの藍ちゃんの話し、聞きたいなぁ。よかったら、話してよ」
「ふん、だ」
「なんだったら、独り言でも」
藍はベリーニのシャンパングラスを黙って傾ける。黒沢はテーブルにうつ伏せたまま、
それを見ている。やがて、藍は湿りを帯びた声で言った。
「バームクーヘン買ってくれて、ありがとう」
そろそろと起き上がる黒沢。遠慮がちに応える。
「いえ、どういたしまして」
藍は夜の海を見ている。そのままで、続ける。
「ノエルは、私がバームクーヘンが嫌いだって思い込んでたみたいね。たしかに、誤解
されそうな言い方をしたわ」
「て、ことは好きなの?」
藍を見てから、同じように視線を海に向けて、黒沢が尋ねる。
「前はね」
「何かの拍子に嫌いになったの?」
「いいえ、ずっと好きだったわ」
藍はぽつりぽつりと話を続ける。夜の海にぽつりぽつりと光が浮かんでいる。
「昔、一度だけ、家族全員で旅行に行ったことがあるの。両親と、姉2人と一緒にね。
それ以外は、いつも母は留守番していたから、本当に珍しかった」
「そうなんだ。いつごろ?」
「私が小学校2年の時だったわね」
「うん」
「で、ホテルに泊まったんだけど、売店に、今日みたいにバームクーヘンがあったのよ」
黒沢は言葉をはさみそうになったが、黙っていた。
「私、好きだったものだから、親にねだったのよね。旅行で浮き立ってたせいも
あるでしょうけどね・・・。それで」
言葉が止まる。黒沢が、藍の方に顔を向けて尋ねる。
「それで、どうなったの?」
藍は外を見たまま、答えた。
「「駄目!」って、すごい勢いで言われたわ」
「誰に?」
「父に」
「お母さんでなくて?」
「そうなのよね。母ではなかったの、意外なことに」
グラスを弄ぶ藍。
「今にして思えば、母を連れていて、疲れていたか、気が張ってたんでしょうね。
子供の要求を聞く余裕がなかったんでしょうよ。でも、その頃はわからなかった」
黒沢の方を向いて、苦笑する。
「相当ショックだったらしくて、それ以来、バームクーヘンを食べられなくなったわ。
嫌いになったわけじゃないのにね。お菓子屋で見ても、いつも素通りして、どこかで
おやつに出されても、手をつけられなかったのよね」
「20年近くも、ずっと?」
黒沢は痛ましそうに藍を見ている。藍は慌てて手を振る。
「あ、でもね、さっき食べたのよ。ノエルと部屋に戻って、夕食の前にね。なんだか、
直ったみたいよ。味なんて忘れてたと思ったら、結構覚えてるものなのね。ああ、
この味だったって思ったわ」
「おいしかった? 藍ちゃん」
身を乗り出して黒沢が尋ねる。泣き笑いで藍が答える。
「おいしかったわよ、とても、ね」
「そう、よかったね。・・・あ、すみません」
黒沢は通りかかったウエイターをつかまえて、売店の営業時間を尋ねる。まだ開いて
いるとわかり、藍を促して席を立とうとする。
「どうしたのよ?」
椅子を蹴飛ばしそうになりながら、黒沢は言った。
「バームクーヘンくらい、いくらだって買ってあげるよっ、藍ちゃん」
10 藍とノエルの泊まっている部屋
黒沢と藍が売店に向かっている頃、ノエルの寝息が止まり、彼女はぱちっと目を
開けた。
「藍さん?」
フットランプを頼りに隣のベッドを見る。空である。
「藍さんっ」
ベッドに半身を起こすノエル。枕元に置いてあったポシェットに手を伸ばす。スタンド
ライトをつけ、心配そうに水晶球をのぞき込む。やがて、ほっとして息を吐いた。ポシ
ェットに戻して、ベッドに寝直す。横向きになってドアを背を向ける。と、ドアの開く音が
した。目をつぶって寝たふりをするノエル。入ってきた藍は、そっとノエルの様子を窺う。
「よく寝てるわね」と呟いて洗面所に向かう。ノエルは眠ったふりを続ける。藍が寝る仕度を
している間に、ノエルは本当に眠りに落ちて行った。
11 同時刻 柴崎家
居間の電話が鳴った。顔に、うっすらとそばかすを浮かべた珠子が電話を取る。
「はい。・・・お待ちください」
傍らで本を読んでいた翔に「SILVER EYEさん」と伝える。「子機で話すから」と、翔が
部屋を出ていく。珠子はうなづいて、居間に残った。
「どうした? アビルージュ」
寝室の子機を取り、挨拶抜きで翔が切り出す。
「こんばんは。夜分に失礼ます、フィリアス」
「何か急ぎだろ? 気にすることはないさ」
「今日、横浜のホテルで藍さんたち3人にお会いしましてね」
「若過ぎる両親とその子供風の形態か。それで?」
「藍さんたちは気づいてないようでしたけど、妙な人物の影を見ましたよ」
「ほう。どんな?」
「例の湊鼠氏ではありませんね。平凡で目立たないのが特徴のような感じの男性です」
「その男、20代初めの中肉中背で、耳殻が外側に飛び出してないか?」
「ええ、それにえらが張ってましたね」
記憶を手繰りながら言うSILVER EYE。落ち着いて応える翔。
「それは、俺が個人的に雇った探偵だ」
「え?」
「湊鼠は一応片づけたが、あいつが「来井 円」のファンなのは変わらないだろ?
座談会とそれ絡みの藍の記憶を消しても、またいつ、妙な動きを始めるかわから
ないからな。かと言って、ずっと社の調査部を使うわけも行かないから、探偵を
使うことにした。それも、黒沢氏と藍の身辺警護さ。妙な奴が周辺をうろついて
ないか、チェックさせてる。ノエルって言ったか、子供も含めてだ」
そこまで言って、翔は吹き出す。
「もっとも、不審者発見の前に、お前に怪しまれてちゃ、どうしようもないな」
「僕が気づいたのは偶然ですよ。藍さんたちを気にかけていましたから。普通は
わからないと思いますよ」
「それでも、注意はしておく」
「藍さんたちには、彼のことは?」
「話してない。敵を欺くには、まず味方からっていうだろ?」
「そうですね。ただ、もしも気づいて気味悪がったら、教えてもいいでしょう?」
「ああ。だが、お前や俺に話すとしたら、大分時間が経ってからだと思わないか?」
「アレキサンドライトで真子さんたちに話す場合は、「オーロラたちの饗宴」が聞いて
いますから、早めに応対できますよ」
「わかった。その時はまかせる」
「それじゃ、おやすみなさい」
「おやすみ」
12 翌朝 ホテル内のレストラン
ビュッフェ形式の朝食。黒沢がパンの置いてあるコーナーの前でため息をついて
いた。
「ガーリックトーストが、ない」
「仕方ないわよ」
普通のトーストとスクランブルエッグと紅茶を取った藍が言う。
「アレキサンドライトに通い始める前は、そんなに食べてたわけじゃないんでしょ?
その頃に戻った気分で召し上がったら?」
「ごもっともです」
黒沢は「1年5か月前に戻るんだぁ」と言いながらクロワッサンとサラダ、コーヒーを
取る。藍とノエルが座っているテーブルに合流する。
「おじさん、かわいそう」
そう言いながらノエルは笑っている。彼女はパンケーキとソーセージ、オレンジジュース
を取っている。
「アレキサンドライトの有り難みがわかっていいんじゃない?」
「いつだって有り難いって思ってるんだけどなあ」
黒沢はクロワッサンにかぶりつく。
「そういえば、エッセイでアレキサンドライトを書いたことがあったんだよね」
記憶がないと言う風に首を傾げる藍。黒沢は心配そうに続ける。
「引っ越しをして、朝ごはんはいつも宝石の名前がついた軽食店で取るって。そっち
経由で「み」の字さんが嗅ぎつけるなんて、ないよね」
藍は眉をひそめる。
「アレキサンドライトが宝石の名前だって知ってる人が、どれくらいいるかしらね」
「おいらも、今のアレキサンドライトに行って初めて知ったけど」
「ダイヤモンド、サファイア、ルビー、エメラルドほどの知名度はないと思うけど」
「うーん」
クロワッサンを思い切り噛むが、歯ごたえがなさすぎて勢いあまっている。
「だーけどさあ、お店の名前の由来を質問して、そんでもって、そこに秘書さんそっくりの
人がいたら、「これは」って思われない?」
「マスターに、偶然で押し切ってもらいましょう」
愉快そうに言う藍。言ってから、こっそり黒沢にウインクする。はっとなった黒沢は、
ノエルの様子を横目に見て、大げさにうなづく。
「うん、そーだね。マスターたちなら、上手くやってくれるでしょ」
「そうそう。今から気に病んでても、しょうがないし」
「だねっ。おいら、りんごジュースもらってくる」
「どうぞ。ジュースなんて珍しいんじゃない?」
「アップルパイのかわりなのっ」
いそいそと席を立つ黒沢。少し離れたテーブルで、翔の雇った探偵がごはんと
味噌汁の朝食を取っていた。
13 黒沢の部屋
朝食が済んでホテルの庭園を3人で散歩してから、黒沢は部屋に戻った。室内の
コンセントで充電しておいたVAIOで仕事に取りかかろうとする。が、はたと手を止め、
ゆっくりと部屋の中を見回す。黒沢は、ぼそっと呟いた。
「なんだかなぁ」
14 同時刻 藍とノエルの部屋
ノエルがクロスワードパズルの本と筆記用具を取り出す。藍は天藤 真の「大誘拐」
を手にしていた。
「もう、7、8回読んでるけど、何回読んでも面白いわよね」
「藍さんは、おひまなの?」
「今は仕事がないのよね。こっちで待機しようと思って」
「あとで、一緒におでかけは、駄目?」
「黒沢さんに断って、出かけましょうか」
そう言ったところで内線電話が鳴った。藍が出る。
「はい」
「藍ちゃーん」
「どうしたの?」
「あのさあ、よかったら、ノエルと一緒にこっちの部屋にきてくんない?」
「え?」
「いや、さあ」
困ったように黒沢は言った。
「藍ちゃんが隣で本読んでる時に書くのが癖になっててさ、なんか、ひとりでいたら
調子がおかしいんだわ」
15 いつもの光景
黒沢の部屋。机に向かって、黒沢がVAIOでぱちゃぱちゃと原稿を打っている。
その近くでは藍が本を読んでいる。ベッドに腹這いになり、ノエルがクロスワード
パズルを解いている。ノエルが英和辞典を引いているのに気づき、藍が声をかける。
「なにやってるの、ノエル」
「クロスワードパズルです」
「その辞典、英和じゃないの」
「和英と併せて一冊ですけど」
鳩が豆鉄砲を食った顔になる藍。ノエルは真面目に続ける。
「だってこれ、英単語クロスワードですもん」
「すごいこと、やってるのね」
「学校でも習ってるから」
「そういえば、私立だったわね」
納得する藍。いたずらっぽく言う。
「1問くらい、私にも解けるのはないかしら」
「今、詰まってるのが・・・これです」
藍が近づくと、ノエルはパズルを見せる。
「横の11番。「比喩的に、きらびやかな人々の集まり」。Cで始まる13文字です」
少し考えて、藍は微笑んだ。
「これは知ってるわ。「CONSTELLATION (コンステレーション) 」よ。本来の意味は
「星座」ね」
「ありがとう、藍さん」と言って書き込むノエル。聞いていた黒沢は、「偶然って
すごいにゃ」と言いながら「プレゼント」の5回目、「ん?」 を打っている。藍はなおも
しばらく、ノエルのクロスワードパズルにつきあい、それが一段落してから言った。
「この辺でお茶でもいかが? 黒沢さんもノエルも、一息入れたら?」
「はーい、藍ちゃん」
「お茶飲みに行くの? 藍さん」
「ここでお茶会。バームクーヘン、いただきましょ」
「藍さんも、食べてくれますもんね」
嬉しそうなノエル。それに劣らず嬉しそうに藍が言う。
「ええ、食べられるようになったから。ノエルがきっかけになってくれたわ。それで、
普通のと、抹茶と、チョコと、アプリコットと、どれがいい?」
「藍さん、あるのは、普通のだけですけど」
「夕べ、私が買ってもらった分があるのよ」
16 廊下にて
気分転換と運動のために黒沢が外に出た。と、50代半ばの男性と出くわした。
あごひげを蓄えた、黒縁眼鏡の気難しそうな人物だった。
「こんにちは、鉄紺 (てっこん) さん。泊まりの日程が重なってたんですね」
片岡 (かたおか) 鉄紺、黒沢の同業者である。鉄紺は鼻を鳴らした。
「ふん。奇天烈な売り出し方で人の耳目を集めている輩と同じ企画に駆り出さ
れるとはな」
黒沢は困った顔をして鉄紺を見返した。
「どうした、言い返したらどうだ。はったり者」
「ミステリーは遊びの要素の強い小説分野ですから、私のような者がひとりくらい
いても受け入れてくれる懐の大きさはあると思います」
「そう言ってるひまがあったら、化けの皮が剥がれる前に腕を磨くんだな」
「失礼します」
礼をして、黒沢は立ち去った。エレベーターに乗りながら、呟く。
「鉄紺さんは、例の座談会にはいなかったよね。よかった・・・よーな気がする」
17 数日後 横浜近辺の水族館
夏休みと言うことで、多くの親子連れが来ていた。人いきれに疲れ、休憩コーナーで
ひといきつく者も多かった。売店ではジュースが飛ぶように売れている。そのレジの
奥には、ビーズ刺繍のような小さな額が飾ってあった。
「その、きれいな額は何ですか」
水色のワンピースの、藍によく似た女性がジュースを買ったついでに尋ねる。夏の
アルバイトの学生は心もとなそうに答えた。
「さあ、知らないんですけど」
脇にいた社員がフォローする。
「ビーズがメインの刺繍ですが、少し宝石のペリドットも使っているものです。以前に
ここに勤めていた者が、趣味で作ったんですよ」
「そうですか」
尋ねた客・・・髪をひとつにまとめている真子・・・はついでという調子で言った。
「手にとって見てみたいんですけど、いいですか?」
「構いませんよ」
社員は満更でもない顔でうなづき、額をはずして真子に手渡す。真子は、ひまわりを
描いたビーズ刺繍を見つめる。
「きれいですね」
「季節もちょうどいいですしね」
社員がそう応えた時、火災報知機が鳴った。ざわめく客たち。
「落ち着いて、落ち着いてください」
社員が大声で言う。売店のはずれで、男性が叫んだ。
「大丈夫です。子供が押し合いして、うっかり押しただけです」
その場に、ほっとした雰囲気が漂う。火災探知機を確認しに行こうとする社員に、真子は
額を返す。
「ありがとうございました」
「いいえ、どういたしまして」
真子はさりげなく売店を立ち去る。売店から死角になっている水槽に移動する。火災
報知機を鳴らし、そのあと「大丈夫」と叫んだ赤井が、真子を待っていた。
「真子ちゃん、チェンジできた?」
「はい」
すり替えた額を入れた手提げを軽く持ち上げる。
「今日は、藍ちゃん式を少し簡略化させてもらったね」
「藍は、この仕事をもうやめていますから、そのネーミングは喜ばないかもしれませんよ」
「うん。そうかもしれないね」
赤井は自然な動作で真子から手提げを受け取る。手提げは、男女のいずれが持って
いてもおかしくないデザインである。ついでに、ジュースも受け取る。
「さてと、今日のお仕事は済んだから、真子ちゃんはゆっくり水族館見物をして
いったら? わたしは、高校野球を見たいから、お先に帰りますよ」
真子が何か言おうとするのをとどめ、赤井は反対側の水槽を指さす。SILVER EYEが
立っていた。いつものブレザースタイルでなく、水色ベースのマドラスチェックのシャツに
白いズボン身につけている。赤井に指さされ、苦笑いしている。
「そういうわけで、わたしはお先にね」
「はい、すみません」
頭を下げる真子。軽く手を振って赤井は去っていく。真子はゆっくりとSILVER EYEに
近づいていった。
「SILVER EYEさん、お仕事はいいんですか?」
「今日は僕も夏休みですよ」
SILVER EYEが促し、2人は水族館の中を歩き始めた。
18 「幸福な人魚姫」
同時刻、黒沢と藍、ノエルが水族館のチケットを買っていた。ホテルに宿泊していな
がら黒沢たちに付き合い、缶詰状態になってしまったノエルの希望で、今日は遊びに
出ることになったのだった。
「マナティって、ここの水族館にいたかしら」
パンフレットを見ながら藍が言う。
「神奈川のよみうりランド海水水族館とか、三重の鳥羽水族館とか、あと何か所か
いたはずだよん。熱川バナナワニ園もだったかなぁ」
「マナティって?」
ノエルが尋ねる。
「ジュゴンと同様に、人魚のモデルになったとされている生物よ」
3人で、前になり、後になりながら見て回る。やがて、それぞれのペースがずいぶん
違うことに気づいた藍が、集合時間と場所を決めて分かれることを提案した。
「ノエル、それでも大丈夫よね」
「はいっ」
しっかりうなづくノエル。3人は打ち合わせの後、思い思いの方向へ動いた。ノエルは
熱帯魚の水槽を見に行った。鮮やかな色彩が踊るのをうっとりと見ている。水槽と
水槽の間を移動する時、人ごみのなかに見覚えのある2人連れを見つけて、足が
止まった。
「ウエイトレスのお姉さんと、「オーロラたちの饗宴」の画家さん」
赤井が帰ったあと、真子は髪を下ろしていた。ロングの髪にワンピースと同じ色の
ヘアバンドをしている。
「デートのお邪魔は、いけませんよね」
自分の言ったことに赤くなったノエルは、SILVER EYEたちに気づかれないうちに、他の
コーナーに移動していった。
第5話 終わり
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