「Constellation〜星座〜」(第1話 前半)
第1話 「4月・・・Con game (だまし合い)」前半
プロローグ 〜First contact〜
3月の末、夕刻。とあるオフィスの一室。
角がばらばらになっていた履歴書の束を机の上で揃え、30そこそこの男性がいった。
「不要なものは、不採用通知と一緒に送り返しますか?」
50に手が届きそうな男性が応える。
「そうだな。誰か、手の空いた者に頼んでおいてくれ。また、どこかの面接用に書き
直すのは大変だろうから」
「わかりました」
うなづいてから、履歴書を持った男性が苦笑する。
「無理に人を採らなくてもよかったのに。今のメンバーで充分やっていけるでしょう。
該当者を見つけるのも一苦労なんですからね。手がふやけましたよ」
「私は、部下は6人欲しいんだ」
「わかってます」
「それに、思いがけないねずみもひっかかったし。よかったじゃないか」
「そうですね」
にやりと笑い合う2人。
「新入社員君の、お手並み拝見だ。お目付役は任せたよ」
「はい」
1 矢島探偵社
4月初めの、晴れた日。もうじき午前9時になろうという頃。一人の若い男性が、
「矢島探偵社」というネームプレートのかかったドアの前に立っていた。年は24、5
歳。オーソドックスで清潔なスーツに身を包み、折目正しい雰囲気の持ち主だった。
プレートとドアを交互に見て、腕時計を確認して、ため息をつく。
「初日からこの手を使ったのは、我ながら情けないよな。かといって、遅刻はでき
なかったし」
いいながら、思い切ったようにドアを開ける。内側につけられたドアベルが鳴ると
同時に、やや高めの、人間らしくない声が彼を出迎えた。
『矢島探偵社へようこそ。お話をお聞かせください。あなたのお役に立てるかもしれ
ません』
「いえっ、俺は」
いいかけて、黙る。パーティションで区切られた、ドアを入ってすぐの小さな空間に
大型の鳥籠が置かれ、その中の九官鳥がいっていたのだった。
「コニー、その人は依頼者じゃない。新入社員だよ」
パーティションの影から、三つ揃いのスーツに派手めのジャガードのネクタイをした
30そこそこの男性が現れていった。入ってきた彼を見て、快活に声をかける。
「お早う、新入社員。遅刻ぎりぎりセーフだな。時間の読みを間違えたか?」
「ええ、電車の乗り継ぎを少々」
本当はそれどころのレベルではなかったけれど、と思いながら答える。
「すぐに慣れるさ。それに、前もそうだったろうけど、勤務時間はあってないようなもの
だし。それほど神経質にならなくてもいいぞ」
「はい。面接の時にお会いしていますよね」
「そうだな」
ジャガードのネクタイ氏は右手を差し出しながら、笑いかける。
「40倍近くの競争率を勝ち残って、採用おめでとう。これから、よろしくな。檜沢 邦之
(ひざわ くにゆき)だ。一応、社員のリーダー格で、あれこれ指示を出すことになる」
「篠原 俊二(しのはら しゅんじ)です。よろしくお願いします」
力比べかと思うほどにきつく手を握られ、篠原はかすかに顔をしかめる。檜沢は
その表情を見ていった。
「痛いか?」
「いえ、別に」
負けじと握り返しながら、篠原が答える。やがて、二人は手を放した。
「檜沢さん、癖なんですか? 面接の時も、やたらきつかったですけど。部屋に入る時と
出る時」
「死んだ魚のような握手はごめんだね」
『檜沢、檜沢、檜沢』
九官鳥がいう。
「なんだ、コニー」
若い女性の声が、パーティションの向こう側で、かわりに答えた。
「みんな、お待ちかねなのよ、新しいお仲間を。リーダー、独り占めしないでね」
2 メンバー
檜沢に誘導され、篠原はパーティションの向こう側、ドアを背に左側に移った。日が
差し込むフロアに6個の机が島になって配置され、4人の男女がそれぞれの椅子から
立ち上がって2人を待ち受けていた。
「待たせて悪かったな。こっちが、今日からメンバーに入る篠原だ。ちなみに、かの
大手探偵社・時枝(ときえだ)エージェンシーからの転職組。エリートだぞ」
前の職場を暴露されて篠原はひやりとした。だが、4人は特にリアクションを起こさ
ない。もう、採用が決まった時から、彼らには明かされていたのかもしれないと思う。
会釈ののち、檜沢は4人を順に紹介していった。
ドアを背にして、一番パーティションよりにいるオレンジ色のワンピースの女性。黒い
ブレードが効果的にあちこちに入っている。髪はソバージュをきれいにまとめている。
26、7歳に見える。
「杉田 由紀乃 (すぎた ゆきの)。怖い物知らず、お転婆、はねっかえりの突撃隊員」
「あら、失礼ね」
声から、さっきパーティション越しに檜沢に返事をした者だとわかる。「よろしくね、俊
ちゃん」と首を傾げつつウインクする。「もう、名前まで知られてるんですか」と苦笑い
する篠原。
由紀乃からひとつ置いた、奥の机にいる若い男性。スタジアムジャンパーを着ていて、
学生のような雰囲気を持っている。年の頃、21か22くらい。
「栗山 幾雄 (くりやま いくお)。社長の考えがあって、今は遊軍に近い。でも、将来の
有望株だ」
「よろしくお願いしまーす。呼び方は、幾男でいいです」と、気さくにいう。
その正面、窓に背を向けてパーティションから一番遠い。30代半ばに見える、ロイド
眼鏡にスーツの男性。中年太りが始まりかかっているような体型。
「柏崎 真 (かしわざき まこと)。通称、「モチさん」。コニーのことは、一番よく知ってる」
温厚そうに「はじめまして」と微笑む。「あ、「モチさん」って、柏餅ですね」という篠原に
そうそうと、うなづく。
机ひとつ置いて、パーティションよりで窓を背にした位置。一周して、由紀乃の正面に
当たる。淡いクリーム色にうっすらピンクの混ざったフェミニンなスーツを着ている女性。
金のロケットをしている。ストレートの髪は肩にかかるほどで、前髪は眉が隠れる程度に
切り揃えている。25、6歳くらい。
「室咲 美咲 (むろさき みさき)。事務、経理担当。一番、世話になる相手かもしれないな」
「はじめまして。領収書は貯めずに出してくださいね」
ふんわりと微笑んで、篠原にいう。「気をつけます」と答える篠原。
篠原の席は由紀乃と幾男の間、檜沢はその正面といわれる。回り込んで席につく篠原に、
檜沢が説明を続ける。
「これで社長が来れば、フルメンバー揃う。もっとも、普段いる部屋はドアを入って右の奥だ」
「右の手前は、来客室ね。依頼者用の。採用試験の面接にも使ったんじゃない?」
篠原の右の席で由紀乃がいう。
「ええ」
「パーティションで区切って、左側が僕らのスペースになってます。その、もっと奥は男女別
ロッカールームです。七つ道具置き場もあるよ」
左側の幾男がいう。
「流し、棚、その他の場所も忘れずに」
眼鏡を拭きながら柏崎もまぜっかえす。誰かが何かいうたび、首をそっちへ向けてうなづく
篠原。ふと、美咲が何もいってないのに気づく。右斜め前の彼女を見ると、ちょうど白い表紙
のバインダーを手に、彼の方へ向き直ったところだった。
「これ、篠原さん用ですから。使ってください」
「はい」と手を伸ばして受け取る篠原。受け渡しの際、美咲の左手薬指にプラチナの指輪が
光っているのに気づく。篠原が一瞬、「なーんだ」、という表情になったのを、檜沢と由紀乃が
逃さずに見ていた。美咲は気づいているのかいないのか、普通の表情でいる。「もう、9時回
ってるよ。社長、遅いね」と幾男。「もう、見えるでしょう」と眼鏡を掛け直した柏崎が受ける。
と、その会話に答えるように、ドアベルが鳴った。
3 社長
『社長、お早うございます』
「お早う、コニー」
パーティション越しに社長と九官鳥の会話が聞こえる。やがて、足音と共にその本体が社員
たちの前に姿を現した。
「お早う、羊飼い諸君。今日も元気かね?」
50歳に手が届きそうな男性。取り立てて目立つ風貌ではない。ただ、目が会うと、柔和な光が
その瞳に浮かぶ。無言で「がんばれよ」といわれているような気がする。
面接の時も、そう思ったっけ、と篠原が回想している間に、ほかの者たちは口々に返事をして
いた。
「羊飼いというより、牧羊犬のように元気ですよ」
にやりと笑いながら、檜沢。
「心穏やかに、安穏とした気持ちで、元気です」
胸に手を当てて、柏崎。
「羊の種類が、まだわかりませ〜ん」
両手を挙げて、お手上げのポーズで、幾男。
「お化粧ののりもよくて、元気ですわ」
と由紀乃。
「はい、元気です」
にこりと美咲。
「それで、篠原は?」
篠原に視線が集中する。赤くなりながら彼が答える。
「元気です」
「それなら、よろしい」
満足げな表情で矢島がうなづく。
「何か相談があったら、いつでも私にいってきてくれ。普段の仕事は檜沢の指示に従うように。
みんなとも早く親しめるといいね」
それじゃ、と社長室に向かう。「お茶はどうします?」と由紀乃、美咲の声が追いかける。「今日は
自分で入れるからいいよ」と答えて、矢島の部屋のドアがしまった。ふうっと、リラックスする一同。
「あの、「羊飼い諸君」って何ですか?」
誰にともなく尋ねる篠原。
「毎朝の挨拶よ。思ったとおりに好きなように答えてね」
ワンピースと同じ、オレンジ色の表紙のバインダーを開けながら由紀乃がいう。メモをチェックし、
「報告書、書かなくっちゃ」と呟き、ノートパソコンを開く。左手中指に指輪をしている。横使いの
長四角形で、真ん中から赤と緑に色が分かれている。篠原の視線に気づき、にこりと言う。
「バイカラーのトルマリンよ」
和名を電気石といい、加熱したり、摩擦すると電気性を帯びるという特徴がある。また、色が
多彩で、ほとんどあらゆる色のものがある。中には、由紀乃がしているように、1つの結晶で
2つかそれ以上の色を示すトルマリンもある。パートカラー・トルマリンともいう。
「それでだな、篠原」
向かいの席から檜沢がいう。
「午前中の仕事として、うちの受付嬢に顔と名前を覚えてもらってくれ」
4 cony
鳥籠の九官鳥に、篠原が話しかけている。
「新入社員の篠原です。コニー、よろしくお願いします。篠原です、篠原。し、の、は、ら」
コニーは知らん顔してフルーツをついばんでいる。
「篠原です、篠原だよっ。柏崎さん、聞いてくれませんよ」
脇に立って見守っている柏崎に助けを求める。
「気が向いてないのかな、コニー」
苦笑している柏崎。
「そんな、すぐに新しい言葉を覚えますか? しかも、俺の顔とセットで」
「この娘(こ)は、とても利口なんですよ」
「無理ですよ。もう、やめましょうよ」
かれこれ、もう2時間近く経過している。
「だけどさ、篠原君、毎朝コニーにお客さんと間違われて、『ようこそ』っていわれるのは
嫌でしょう?」
「それはねえ」
嫌そうな顔をする篠原。ふと、気づいて、
「そういえば、社長に挨拶していましたね」
「ええ」
「と、いうことは、社長の顔は覚えている」
「メンバー全員、頭に入ってますよ、この娘は」
自慢げにいう柏崎。疑い半分、信じるのを半分の目で見る篠原。「気分を変えようか」と、
コニーを鳥籠の外に出す柏崎。彼の手に乗るコニー。
「今日はいい天気だよ」
パーティションを回り、檜沢たちのいるスペースへ移動する。窓際に連れていく。篠原も
後を追った。
「へ・・・え」
水平に伸ばされた柏崎の腕の上にコニーが止まっている。日の光を浴びて、コニーの
黒い羽毛が虹色の輝きを増し、紫と緑の色合いを見せた。羽の生えていない肉ダレと
風切り羽の白い部分がアクセントになり、全身をひきしめる。
「きれいだなぁ」
篠原は思わす感嘆の声を挙げた。
『ありがと、シノハラ』
ぎょっとする篠原に、「やった」と笑う柏崎。見守っていた残り4人も拍手と笑い声を挙げた。
由紀乃がころころ笑いながらいう。
「やっぱり、女の子よねー。きれいだって褒めたら、速攻でご機嫌がよくなるんだもん」
「あの、九官鳥って、人には雄雌の区別がつけられないんじゃなかったんですか」
「科学的な新しい鑑定方法ができたの。で、その子はお嬢さんなのよ、俊ちゃん」
「あ、そうですか」というのが精一杯の篠原。
『シノハラ、シノハラ、篠原』
調子がついたのか、リズミカルにいうコニー。
「よし、一仕事済んだな」
檜沢が上着を取っていう。
「出かけるから付き合え、篠原。昼飯はおごるぞ」
柏崎が、
「それじゃ、篠原君、行ってらっしゃい」
と続ける。
「あ、はい」
檜沢の後を追って、あたふたと篠原は出ていった。
「コニー、あんたって、女優さんね。よしよし、よくやったわ」
由紀乃が自分の弁当箱からゆで卵をとり出して割りほぐし、ほんの少しコニーに与えた。
「顔を覚えるのはいいとして、2時間で人の名前を言えるようには、ならないわよね」
柏崎がコニーの背中を撫でながら答える。
「入社予定者の名前を聞いてから、毎日特訓しましたからね。コニーもがんばりました」
「だまされちゃってさ、篠(しの)さん・・・こう呼ばせてもらおっと・・・こっちは束になってるから、
無理ないけど」
漫画本を読む手を止めて、幾男がいう。
「九官鳥までグルだとは思わないよねー」
「からかって、悪いことしたみたい」
領収書の整頓をしながら、美咲がいった。
「人がいいわね、美咲」
あきれ顔で由紀乃がいう。
「コニーを褒めてくれたので、私も、少し申し訳ない気になってますけど」
受付嬢を連れて鳥籠に向かいながら、柏崎もいう。
「あら、モチさん、裏切るの? 幾男ちゃん、あなたは変わらないわよね」
「はいな、おねーさま。おべんとのタコさんウインナーをくれたらね」
「あなたが嫌いなピクルスも添えて差し上げるわ」
「もう、お昼にしましょうか」
美咲はお茶を入れに、立ち上がった。
5 同時刻・探偵社の外
檜沢と共にエレベーターで1階に降りた篠原が、外に出て、オフィスの入っているビルを
見上げている。東京都内、とある私鉄駅前の5階建てのビル。1階は本屋とコンビニエン
スストア、2階は喫茶店・アスコット、4、5階はフィットネスクラブ。上下をこれらの店舗に
挟まれた3階に矢島探偵社と個人営業の旅行代理店が入っている。矢島探偵社の窓は、
特に広告の貼り紙があるわけでもなく、素のままのガラスが日光を室内に取り入れている。
「欲がないよなぁ。それとも、放っておいても口コミで客が来るから、いいのか?」
隣の敷地内に有る立体駐車場から車を回してきた檜沢が、合図をする。乗り込む篠原。
黒いシルビアS13である。
「何、見てたんだ」
篠原がシートベルトを締めるのを確認しながら、檜沢が尋ねる。
「新しい職場を」
「ふうん。ま、日々新しい発見があるだろうから、楽しみにするんだな」
「そうですね」
篠原は、苦笑した。
1、2週間前に比べて、ずいぶん春めいた服装の人々が横断歩道を渡っていく。
「この辺の地理勘はあるのか?」
「ほどほど、ですね」
「それじゃ、午前中はオレが転がす。で、午後からはお前が運転してくれ。車にも慣れて
欲しいから」
「はい」
信号が青になり、檜沢は車をスタートさせた。
6 午後5時近く 矢島探偵社・社員スペース
帰り支度を済ませた由紀乃が、女子用ロッカールームから出てきた。花と樹木とオーク
モスの混ざった個性的な香りを身に纏(まと)っている。幾男の後ろを通った時に彼が鼻を
ひくつかせて尋ねた。
「おねーさま、これって、何?」
「新しくおろした、グレのカボシャール。「強情っぱり」の意味ね」
「まあ、なんて、おねーさまにぴったりな香水」
「何ですって」
ハンドバックでなぐりかかる真似をする。両腕でブロックのふりをして、幾男はさらに、
「昼間、午後からつけてたのと、違うじゃない」
「あれは、グレのカボティーヌ。カボシャールの娘版」
「へーえ。親と娘(こ)ね」
カボティーヌ。「無邪気な女性の花」と呼ばれるジンジャーリリーをベースに、グリーンを
混ぜた、すがすがしい香り立ちがする。
「昼はカボティーヌ、夕方からはカボシャールで使い分けてみようかと思って」
「で、これからデートですか、おねーさま」
「まあね。アフター5はお忙しいのよ」
機嫌よく幾男にウインクする。
「彼氏によろしくお伝えください」
にこにこと調子を合わせる幾男。
「それで、あなたは? 幾男ちゃん」
「これ、読み終わってから帰ります。もう少しで、きりのいいところだから」
たがみよしひさの「NERVOUS BREAKDOWN(なあばす ぶれいくだうん)」を読んでいる。
「モチさんは?」
柏崎も帰り支度をしている。
「まっすぐ家に帰ります」
「家庭的な、だんな様」
「帰れる時は、帰りますよ。今は徹夜の仕事は入ってないし」
「賢明よね。それで、美咲は?」
「もう少しいるわ。檜沢さんたちが戻ってきてないから」
「義理堅いわぁ。じゃ、お先にね」
由紀乃はポン、と美咲の肩を叩きながらパーティションの向こう側に回る。
「美咲、気楽に行きましょうね。みんな、いるんだから。じゃあね、幾男ちゃん」
柏崎も由紀乃に続いた。
「明日も元気で会いましょう。美咲ちゃん、幾男君」
美咲たちが挨拶を返し、2人はコニーにも別れを告げて、出ていった。美咲と幾男が
残される。
「由紀乃、ここ1か月、今までと変わらずに元気だわ」
ふうとため息をついて、美咲がいう。
「やつれたら、困りますよぉ」
漫画本から目を上げて幾男が笑う。
「由紀乃おねーさまみたいなことになったら、普通、元気でにこにこしてると思うけど。
ね、美咲おねーさん」
「そうよね。私の心配の方がおかしいわ」
苦笑してうなづく美咲。
しばらくののち、幾男も腰を上げた。「また明日ね、美咲おねーさん。あまり気にしないで、
もう帰ってもいいんじゃない?」といいながら出ていく。
美咲は、自分の椅子に座り、壁に掛けられたシルクスクリーンの絵を見ている。ちょうど
篠原の背後にあたるところである。
と、ドアベルが鳴り、誰かが入ってきた気配がする。コニーが客を迎える言葉をいっている。
社長室のドアが開き、矢島が応接室に客を誘導するのが、パーティション越しにわかる。
「やっぱり、もうしばらく、残っていた方がいいみたい」
座り直した美咲は、お菓子作りの本を読み始めた。
7 午後6時近く オフィスビル3階の廊下
エレベーターで上がってきた檜沢と篠原が廊下を歩きだそうとした時、矢島探偵社の
ドアが開いた。40代中頃の男性が出てきて、エレベーターホールへ向かってくる。
「おい、こっちだ」
檜沢が篠原にささやき、2人は男性に背を向け、事務所と反対方向、明かりの消えた
旅行代理店の方へ進む。檜沢は自然な動作でポケットから鍵を取り出し、代理店の
ドアを開けた。するりと入る彼に続き、篠原も後を追った。
「何やってるんですか、檜沢さん」
部屋の明かりをつけた檜沢に、篠原が言い募る。
「カムフラージュだよ。お客さん、かどうかは知らないが、今の人物にオレたちがあそこの
社員だと知られないようにね」
「家宅侵入じゃありませんか」
「緊急避難の許可は、ここの経営者からもらってる。以前に依頼を受けて、成功した
報酬の一部でね」
「はあ」
篠原は絶句した。
「うちのメンバー、全員鍵を持ってる。昼間も逃げ込んでいいことになってるんだ。ああ、
お前にはまだ言ってなかったな。鍵は、明日渡すから」
「はい」
フランス、イギリス、イタリア、などなど。海外国内各地のポスターが張ってある旅行
代理店内を見渡しながら、篠原はあっけにとられたように言った。
「用心深いんですね」
「探偵は、人に顔と名前を知られていない方がいいだろう?」
「そうですね」
「だから、うちは依頼者に会うのは原則として矢島社長だけだ。報告書の記名も、なし。
社の名前で出す」
「徹底してるんだ」
「用心に越したことはないのさ。依頼によっては、顔を合わさざるを得ないのもあるがな」
檜沢は窓から下の通りを見ている。
「もう、行ったな。そろそろ戻ろう。社長以外はみんな帰ってるだろうけど」
8 矢島探偵社内
矢島と美咲とコニーが、檜沢と篠原を迎えた。コニーは、しっかりと『お帰り、檜沢。
お帰り、篠原』といった。
矢島が、たった今入ったばかりの依頼の説明をする。続けて、篠原と美咲に、
「君たち2人は現地に直行で待ち伏せを頼む。家からはモチさんと幾男が追うから、
2組目だ」
と指示する。
「場合によってはオレと由紀乃で3組目になるわけですね」
檜沢が確認した。
「あの、室咲さん・・・美咲さんは、事務・経理担当じゃなかったんですか? 文句をいう
つもりはありませんけど」
篠原が3人を等分に見ながら尋ねる。
「事務・経理をメインにやってもらっているけどね」と矢島。
「彼女も立派なメンバーさ」檜沢が言葉をつなげる。
美咲は、ふんわりと微笑んでいう。
「外にはあまり出ませんけど、私も、そういうこともします」
篠原はうなづいた。
「それなら、異論はありません」
矢島がポン、と手を打つ。
「明日は美咲のリードもしてやってくれ。頼んだよ」
矢島は、檜沢に、「帰る前に寄ってくれ」と言い置いて、社長室に入っていった。篠原と
美咲は、帰り支度をする。コニーに挨拶して出ていこうとする篠原を、檜沢がつかま
えた。
「第1日目、おつかれさま」
言いながら右手を差し出す。苦笑してその手をがっちり握る篠原。
「同僚たちに会っての感想は、どうだい?」
「まだ、あまりわかりませんけど、楽しそうなメンバーですね」
「いい奴らだっていうことは、いずれわかるさ。特に、お前みたいな者にとっては」
意味を聞き返そうとしたが、檜沢は手を放し、美咲の方に目を向けた。
「今日は早くに寝るんだな」
「できれば、そうします」
やや伏目がちに、美咲は答えた。
「それじゃ、コニー、おやすみ」
篠原たちがドアを締めた時、檜沢は鳥籠に覆いをするところだった。
9 駅
駅までのほんの20メートルあまりを、篠原と美咲は連れ立って歩いた。まだ、この道を
歩くのに慣れていない風のフレッシュマンの姿がちらほら目につく。
「午後は目一杯、外でしたね。ドライブはいかがでした?」
人懐っこそうに聞いてくる美咲。
「よかったですよ。ならし運転をしっかりしてある車なのかな、よく走ってくれて。ただ、車種が
黒いシルビアS13なのが、なんだかな、っていう感じで」
「ご不満ですか?」
「デートカーの王者みたいだ。それに、オーソドックスすぎて、つまらないな」
「社にある、もう1台の車は、白いマーク2ですけど」
「それもまた、ありふれて目立たないこと、この上ないな」
「矢島社長の方針です。仕事中は社会人として常識的に、自然に、礼儀正しい行動を。
変に人の記憶に残らないように気をつけること。車も目立たず、オーソドックスにって」
「隣の事務所に緊急避難するほど、用心深くか」
「ええ、冗談抜きです」
「室咲さんも逃げ込むの?」
「はい。事務・経理メインでも、それは同じですよ」
「ふうん」
「あの、できれば名字でなくて、名前の方で呼んでください。由紀乃もです」
「セクハラにならないわけ?」
「私たちの場合は、こっちの方が好きです」
「そう。室咲美咲、ね」
「は?」
「いや、語呂がいいのか悪いのか、わからない名前だと思って」
「そうですね」
「結婚して、妙な語呂になってしまったわけですか」
黙って苦笑する美咲。
「これこそ、セクハラかな。ごめんなさい」
「いえいえ。気にしないでください」
駅への階段を降りて、自動改札を通る2人。
「篠原さん、明日は、よろしくお願いしますね」
「こちらこそ」
帰る方向が逆なので、2人はそれぞれのホームへの階段を昇った。
10 ホーム
篠原が階段を昇りきると、向かいのホームに電車が入ってきたところだった。発車を
見送ってホームを見渡すと、美咲の姿はなかった。
「通勤快速に乗ってもいい下車駅か。途中で乗り換える可能性もあるけど」
ホームの人いきれに、首を振る。
「初日の行き帰りにズボラは、まずいよな。でも、今日は疲れたから」
並んでいた列から離れ、人込みの間を縫って、篠原は移動を始めた。
11 同時刻・矢島探偵社 社長室
矢島と檜沢がデスクの脇で話し合っている。
「篠原の様子はどうだったかな?」
柔和な光を瞳に浮かべ、矢島が尋ねる。
「とりあえず、今日は無心でやっていたようです」
デスクの上に飾られた戦闘飛行機の模型を見ながら、檜沢が答える。
「初日から色気を出しても、仕方ないだろうね。ずっと、このままでいて欲しいが」
「そうもいっていられないでしょう。あいつも、こっちも」
「そうだね」
「とにかく、お互い、1日目は様子見でしたね」
「明日以降が、本番かな。リーダー、任せる」
「はい」
12 数分後 篠原のアパート
篠原が室内の電話に出た。
「はい、篠原です。・・・ああ、こんばんは。・・・羊飼いというより、牧羊犬のように
元気ですよ。・・・いえ、冗談です。・・・まだまだ、出社1日目で、メンバーの顔と
名前を覚えるだけで精一杯ですよ。午後は外に出たし。ええ、社の車に慣れる
ためにね」
第1話(前半) 終わり
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