12 翌日 アレキサンドライト店内
開店と同時に入ってきた黒沢が、渡と亜希の話を聞いて、立ったまま安堵の
表情を浮かべた。
「亜希ちゃん、記憶が戻ったの !?」
「はい」
典型的ギャルソンスタイルの渡がいう。
「ご心配おかけしたそうで、ありがとうございました。黒沢さん」
外見はいつもと変わらない、典型的メイドスタイルで亜希がいう。
「うんにゃ、よかったじゃん。ああ、ほっとした」
すとっ、といつもの席に座る。
「そんじゃそんじゃ、いつものお願いね」
「はい」
にっこりと笑って亜希がいう。やがて、スパゲッティとコーヒーが運ばれ、
アップルパイも運ばれ、2杯目のコーヒーも運ばれた。
「亜希ちゃん、これ、プレゼント」
黒沢が包装してリボンをかけた本を渡す。
「普通にあげるつもりだったんだけど、快気祝いになったね」
「わあ」
亜希がさっそく開ける。エゴン・マチーセンの「あおい目のこねこ」。
「絵本ですか」
「うん。おいらの、ちーさいころの愛読書だったけど。ロングセラーだね」
「ありがとうございます」
亜希はにこにこと202号室に置きに行った。黒沢は、口数の少ない渡に言った。
「コーヒーもう1杯、ちょーだい」


13 亜希の部屋
机の脇にある小さな本棚に、亜希はプレゼントされたばかりの絵本を置いた。
ついでにささやかな蔵書を見渡す。
「買った覚えのない本がある。本当に、私、1か月近く記憶をなくしていたのね」


14 同日 晩 イリュージョン
弦楽カルテットがいつものように演奏している中、渡と亜希の座っているテーブルに
虹野がウイスキー・ソーダとリトル・プリンセスを置いていった。ライト・ラムとスイート・
ベルモットをニ分の一ずつ。ステアしてカクテルブラスに注ぐ。小さなお姫さまという
意味だが、別名はポーカーという。
「快気祝い、ありがとうございます」
「いや」
「渡さんと飲むなんて、4月以来ですね。6月は大雨でやめてしまったから」
「そうだね」
渡はぼんやりと相槌を打つ。
「忘れな草は、効かなかったね」
「え?」
「いや、ひとりごと」
グラスが空になり、渡はウイスキー・ソーダをもう1杯、亜希はシャーリー・テンプルを
頼んだ。
「ソフトドリンクだね」
くすっと笑う亜希。
「カリフォルニア・レモネードっていいたいところなんですけど、2杯はきついかと思って」
バーボン・ウイスキーがベースのカクテルである。
「それが、どうしてシャーリー・テンプルに化けるの?」
「どっちもグレナデン・シロップが入ってますから」
それぞれの2杯目の飲み物が運ばれる。亜希は、子役の巻き毛を表現したレモンの
皮を見る。
「母が、好きなんですよ。シャーリー・テンプル。お酒が苦手だから、飲む時はたいてい
これです。グレナデン・シロップの赤い色と甘さがいいんでしょうね。私もつい、これが
入ってるカクテルを選んでしまいます」
「ふうん」
渡も炭酸の気泡が浮いたグラスを見る。
「お母さんのこと、好き?」
「はい」
うなづく亜希。
「あんな女性になれたらって、思います」
「よかったね、そう思えて」


15 数日後 アレキサンドライト店内
黒沢がアップルパイの後のコーヒーを飲みながらいった。
「渡くん、ちょっと元気ないんじゃない?」
「睡眠不足気味なんです」
「このごろ寝苦しいもんね。クーラーの使いすぎは難(なん)だし」
そういいながら、疑わしそうに渡を見ている黒沢。渡はカウンターでため息をついた。
「マウストラップに慣れたら、普通に寝るのが却っておかしい感じがして」


16 同夜 閉店後のアレキサンドライト店内
カウンターの上のフォトスタンドを見ながら、渡がオールドファッションドを飲んでいる。
オールドファッションド・グラスに角砂糖を入れ、アンゴスチュラ・ビター2ダッシュを振り
かけて浸み込ませる。氷をグラスに入れ、ウイスキー45ミリリットルを注ぐ。厚めに
スライスしたレモンとオレンジをグラスの内側に飾る。マラスキーノ・チェリーをカクテル・
ピンに刺してこれも飾る。マドラーでスライスや砂糖をつぶして好みの味に調節して飲む。
「しまった」
いつも以上にレモンをつぶしてしまう。グラスを置き、「オーロラたちの饗宴」の前に立つ。
「亜希・・・さん、記憶が戻りましたよ。ところで、曾祖父は元気ですか?」


17 同時刻 亜希の部屋
ハガキ大の油絵を手に、亜希が首をかしげている。
「やっぱり、入れないわ。お父さま、よほどの非常用に作ってくださったのかしら。でも、
記憶がなかった時は、入ることなんて思いつかなかったでしょうね」


18 翌日 アレキサンドライト店内
黒沢がアップルパイを食べながらいう。
「ホープダイヤが公開になるの、もうじきだね」
「そうですね」
黒沢のすぐ脇、通路に立っている亜希が応える。
「見に行く? 亜希ちゃん」
「はい」
黒い瞳の奥に、かすかに紫色を揺らせて亜希がいう。電話が鳴って、渡がとった。
「亜希・・・ちゃん。布田さんのところ、頼むね」
「はい」
「布田さんたちにとっては、久しぶりに本来の亜希・・・ちゃんと合うことになるからね。
ゆっくりしてきていいよ」
「はい。帰りは兄のところに回ってきます」
亜希がパイの箱を持って姿を消す。渡は3杯目のコーヒーを運んだ。
「啓二さん、夕べ帰って来たって?」
「はい」
「海外で仕事って、画家さんも大変だね。・・・ところで、元気ないじゃん、渡くん。今日も
睡眠不足?」
「ええ、まあ」
「熟睡するための妙薬はないのかねえ」
控えめの冷房のなかで、コーヒーを飲む黒沢。
「亜希ちゃんの記憶がない時に睡眠不足になるならわかるけど、治ってからだってのが、
意外な感じがするね」
「あのころは熟睡してて、情が薄くてすみませんね」
「心にもないこと、いうんじゃないの」
黒沢の脇に立ったままの渡を見上げる。
「眠れない理由って、暑いだけじゃないんでしょ?」
「ええ・・・まあ」
「亜希ちゃんとの関係がさ、記憶がなくなる前に戻っちゃったわけ?」
「ええ、まあ、そうです」
思わず、続けて言葉が出る。
「水色と紫色の瞳が見られなくて、寂しいんですよ」
ゆっくりうなづく黒沢。
「あっちが地なんでしょ、亜希ちゃん」
「初めて見た時は驚きましたけど、あの方がきれいですよ。亜希・・・ちゃんの雰囲気に
しっくり合って」
「持って生まれたカラーは大事だよね。しゃれじゃないよ」
黒沢は「オーロラたちの饗宴」を見てからいう。
「で、これからどーすんの、渡くん」
「どうするって?」
「もう二度と、亜希ちゃんのあの瞳を見られなくていいの?」
「よくは・・・ないです」
「だったら、行動起こせばぁ?」
「行動って、何を?」
「そんなもん、自分で考えなさいよ」
無言で唇を噛みしめる渡。コーヒーを飲み干す黒沢。空のカップをくるくる回す。
「1か月、夢を見ていたって思う? だけどね、夢から覚めたら、本番の始まりなん
じゃない? がんばって、現実に幸せをつかんじゃいなよ」
言ってから背中を掻く。
「うーっ、かゆい。こういうセリフは、金城さんに任せたかった」
噴き出す渡。
「黒沢さんだって、小説家じゃないですか。そんなセリフ、山ほど使ってるでしょ?」
「おいらはユーモアが売りなのっ。ロマンスじゃないのよ」
「じゃーね」と黒沢は出ていき、渡は最敬礼で送り出した。
曾祖父の代からの典型的なギャルソンスタイル。きちっと結んだボウタイをもう一度
直しながら、渡はつぶやいた。
「夢からさめたら本番の始まりか。そうだよな」


19 同夜 グラデーション
紫に場所を教わった亜希が、ひとりで店に入っていった。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
「カウンター、いいですか」
「どうぞ」
6つある席の端から2つ目に座る。
「ご注文は?」
「キッス・ミー。マスターに言うわけじゃないけど」
くすりと笑う店主。ウォッカ、フランジェリコ、ドリンクヨーグルトを三分の一ずつ、
グレナデン・シロップをティースプーン1杯。シェイクしてカクテルグラスに注ぎ、
マラスキーノ・チェリーと花びらをグラスの縁に飾る。
「どうぞ」
「ありがとう」
一口、二口飲みながら、亜希が首を傾げる。
「壁のグラデーションの飾り、前に見たような・・・話しに聞いていたせいかしら」
にこにこと亜希を見ていた店主がいった。
「この間の方と待ち合わせですか?」
「え?」
亜希の目が丸くなった。


20 同時刻 イリュージョン
啓二と渡が向かい合って座っている。
「まずは、お帰りなさい」
「ただいま。留守中、亜希のことをありがとう」
「いいえ」
「記憶も戻ったそうだし。ほっとしたよ」
「ええ」
虹野が家族の肖像とブラック・ホークを持ってくる。静かにテーブルに置き、
優雅な足取りで去っていった。
啓二がグラスを手にとる。イリュージョンでバー・ラジオのオリジナルをメニューに
入れている。グラスに氷1個を入れ、ポワール・ウィリアム(洋梨のブランデー)30
ミリリットル、クレーム・ド・ミント10ミリリットルを注いでステアする。冷えたら氷を
取り出し、よく冷えたシャンパンで満たす。透き通ったグリーンが美しい。
「それで、今日はどうしたの、渡くん」
「お話がありまして」
ブラック・ホークを前にして渡がいう。ミキシンググラスにバーボン・ウイスキーと
スロー・ジンをニ分の一ずつ入れてステアし、カクテルグラスに注ぐ。チェリーを
ピンに刺して飾る。
「話しって?」
「亜希さんのことをお聞きしたいんです」
啓二が眉をひそめる。
「どういうこと?」
「こっちに来た本当の理由とか、啓二さんが国に戻った用事の中身とか、
結婚しないかもしれないといっていた理由とかです」
「亜希に聞けば? 妹が自分から話さないんだったら、僕が勝手にいうわけに
いかないじゃないか」
「話させたくないんです。どうやら、彼女にとってつらいことがあるようだから」
「それで、搦手(からめて)に回るの? 結構やるね、渡くんも」
皮肉を言われているのか、感心されているのか、判断がつかない。
「知ってどうしようっていうの?」
「とにかく、亜希・・・さんのことを知りたいんです」
ふうん、という顔をする啓二。
「好奇心?」
「違います。そんな理由でわざわざ啓二さんを呼び出したりしません」
「それはそうだね」
グラスをかかげ、家族の肖像ごしに渡を見る。緑色の目で見られているような気が
する。
「啓二さんの目は、コンタクトレンズは使っていませんよね」
「前にもいったように、亜希だけだよ。滅多にない瞳なんだから」
グラスを下ろす。
「事情を知ったら、渡くんは逃げ出すかもしれないよ。それとも、亜希の方が逃げる
かな」
「逃がすものですか」
ブラック・ホーク。黒い鷹。猫だろうと兎だろうと捕まえる。目の前の猫からも話は
引き出してみせる。
「できるかな」
渡の気持ちを読み取ったように啓二がいう。目がうっすらと銀色を帯びてくる。
彼は「SILVER EYE」の息子だったと、今更のように思い出す。
「脅しはききませんよ。それから、俺が逃げるかどうかっていうことですけど」
啓二の目を見返しながらいう。
「記憶がなくなっていた時、彼女は俺の話した事実を受けとめてくれましたよ。今度は、
俺の番です」
「本気らしいね」
啓二が笑う。
「マウストラップ」
銀色の幕が二人の上に落ちてきた。


21 ALEXANDRITE EYE
気がつくと渡はどこかの家のリビングルームにいた。イリュージョンのテーブルと
椅子はそのままで、啓二が正面に座っている。
「テーブルが部屋の雰囲気と合わないんだけどね。キッチンよりも、居間にいたい
から。ごめん」
「ここって、どこですか」
感覚は元のままだと思いながら渡は尋ねた。
「マウストラップの中。ただし、内装は僕の家だよ」
「紫さんと住んでいる?」
「そう」
「どうして、こんな」
「ここが居心地のいい、自分の居場所だから。マウストラップは元々回復用の技さ」
「そうでしたね」
何かが頭をよぎったが、それはすぐに消えた。
「それで、亜希のことだけどね」
渡は居ずまいを正す。
「亜希は ALEXANDRITE EYE だ。それがすべての原因だよ」
黙って聞いている渡。
「滅多に生まれないけれど、この瞳の持ち主は種族の中でも最高の能力を有すると
いわれている。歴史にも残っているしね。しかも、亜希は王族で、おまけに、ごく一部の
者しか知らないけど、母の力も受け継いでしまった」
「真子さんの力ですね。ダイヤモンドファイヤまで使えて」
「そう」
「それが、何か問題でも?」
啓二は黙っている。渡は首を傾げた。
「周囲の妬みを買ってしまったとか」
「いや。それだったら、まだいいんだけどね」
ため息をつく啓二。
「ALEXANDRITE EYE は最高の能力者だけど、同時に災厄の元といわれているんだ」
「なんですって?」
「それが生まれた時代には災厄が起きるってね。天候気象の異変でも、疫病でも、
事故の連続でも、何でも。災厄を呼ぶと共にそれをさらに増幅・拡散させる中心人物に
なるといわれている」
「そんなあ」
「実際のところ、亜希が生まれてこの20年、国ではいろいろとやっかいな事が起こって
るよ」
「偶然ですよ、濡れ衣だ」
「僕もそう思う」
あっさりうなづく啓二。
「いつの時代だって、問題は起こるよ。ただ、強力で滅多にいない ALEXANDRITE EYE が
いる時に、それと結び付けてしまうだけだと思う。力のある者だから、問題解決のために
動くことにもなるだろう。問題の中心にいるようにも見えるよ。過去のALEXANDRITE EYE
たちも、実際は災厄を拡散させるより、収めた功績の方が多いんじゃないかな」
「だったら、何も」
「そういう風に冷静に受けとめてくれる者ばかりじゃないんだよね。みんな死にたくないし」
「千年も寿命があって、何を欲張ってるんだか」
「人生設計は千年を基準にして立てるからね。百歳を越えたら余生になるわけじゃない」
それもそうだと、思いなおす渡。
「それで、亜希・・・さんの立場は向こうではどうなっているんですか」
「厳しいね。災厄の元なら絶ってしまえという意見の持ち主もいるよ。相手が王族でも
関係なしだ。むしろ、種族のためになすべきことをしろと責める程だよ」
「ひどい」
「実力行使に出た者もいるよ。亜希は、何回となく命拾いをしている。こういう時、僕らの
種族としての能力はやっかいだね。攻めるも守るも」
「ふざけた言い回しをしないでください」
「そうとでもいわないと、耐えきれない」
家族の肖像が、半分空になっている。
「両親も、亜希の「濡れ衣」を剥がそうとしているんだけどね。でも、公平に見て、この
20年、普通以上に妙な事件が多くて。とりあえずの逃げ道として、二十歳になったから、
武者修行を口実にこっちに来させたわけ。ALEXANDRITE EYE の災厄は、種族の上に
しかかからないといわれている。亜希がずっと戻って来ないならそれでいいという者も
いるし、出て行かれただけでは安心できないから、いっそのことって思う者もいるようだね。
でも、さすがに、こちら側へ来るのは、それだけが理由ではハードルが高いんだ。こちらへ
来るのは、伴侶を探す者だけだよ」
渡はじっと聞いている。
「僕が帰っていたのも、亜希の無実を証明する手伝いのためだったけどね・・・道はなお、
険しいよ。この4か月、向こうは平穏でね。かえって、ALEXANDRITE EYE の災厄証明の
補強になってしまった」
ブラック・ホークはテーブルの上に置かれたまま。
「こんなところかな。なにか、聞きたいことはあるかい」
「結婚しないかもしれないっていってた意味は?」
哀れむような顔で渡を見る。
「災厄を呼ぶといわれている者と結婚する者なんて、いないよね。また、いても、亜希の
命を狙う者がいる限り、そばにいれば巻き添えを食う危険がある。もうひとついえば、
王族だろ? 結婚するなら、自然な流れとして異種族婚になる。そうすると、運命共同体に
なるのは知っているよね。亜希をどうにかするのが難しいなら、矛先は時間を止めた相手に
向かうよ」
「伴侶を殺せば、亜希・・・さんも死ぬ」
「そういうこと。まあ、ちょっと頭をひねれば、誰でも考えつくことだよね」
家族の肖像を飲み干す。
「亜希としては、自分が死ぬのは素(もと)より、愛した誰かを自分のために死なせたくない
んだ。危険な目に遭わせることも含めてね」
「でも、濡れ衣なんでしょう?」
「そうだよ。そう、信じている」
「啓二さん」
「大切な妹だよ。兄弟ができるなんて期待していなかったのに、生まれてきて」
「30歳も離れてね」
くすっと笑う啓二。
「30歳しか離れていなくてね」
啓二はゆっくりと立ち上がった。
「お先に。もしも、なんだったら、亜希はうちで生活するようにしてもいいよ。昼と夜の
仕事からはずしてくれてもいい。判断は任せるからね、マスター代行」
啓二の周囲の空気がゆらりと揺れ、彼の姿が消えた。気がつくと渡はイリュージョンの
席に座っていた。


22 亜希の部屋
グラデーションから帰ってきた亜希が、クロスステッチ刺繍を施したクッションを抱えて、
カーペットの上に座っている。琥珀のネックレスをしていて、何かいおうとするが、思い
止(とど)まる。


23 数日後 アレキサンドライト店内
黒沢がスパゲッティカルボナーラを食べている。
「いよいよお盆休みだね。こんな時にホープダイヤの公開をするなんて、デパートさんは
何を考えているのやら。でも、見る分には空いてて、いいかもねっ」
渡も亜希も返事をしない。首をすくめた黒沢は、「オーロラたちの饗宴」を見た。


24 同夜 横浜
駅前にあるデパートの裏口から渡と亜希が出てきた。
「意外と楽だったね」
「渡さんの腕がいいからですよ」
「ありがとう」
渡はブリティッシュ・スタイルのスーツ姿でネクタイをウインザー・ノットに結んでいる。
亜希はシンプルな白いワンピースで、首から青いダイヤモンドのネックレスをしていた。
「リクエストは、山下公園の散歩?」
「はい」
「護衛とエスコートを兼ねるね」
「よろしくお願いします。あ、公園の端までは、跳んだ方が早いと思いますけど」
遠慮がちに亜希がいう。にこりとした渡は「頼むね」といった。嬉しそうに亜希は渡の
腕に自分の腕を絡める。
「ごめんなさい」
「いいよ」
周囲の空気がゆらりと揺れ、二人の姿がかき消えた。


25 山下公園
ザンギリ頭の像の前に出た二人は、海を左に見て歩き始めた。あちこちにカップルが
いるが、いずれも渡たちのことは眼中にない。
「ここも24時間出入り自由だからね」
「いいですよね」
赤い靴はいてた女の子像の前を通過する。いつからいたのか、啓二がこっそり後を
つけている。瑠璃色のブレザーにロイヤルレジメンタルのネクタイ、そしてリガード。
いつものスタイルでひとりごと。
「心配はいらないと思うけどね、サポートだよ」
潮風に吹かれながら、亜希が進む。ホープダイヤが、心を許した友の胸にいるかの
ように輝く。街灯の下を通るごとに、亜希の姿が夢のように浮かび上がる。亜希から
2、3歩離れて、渡がつきそっている。
「雨じゃないけど、踊っちゃいましょ」
くる、くる、くる、くる。バレエの要領で亜希がターンする。バランスを崩してよろけた
ところを、渡が支えた。
「あ、ありがとう」
「ひとりで無理するんじゃないの」
渡は亜希の手をそのまま握りしめた。
「渡さん?」
亜希の手をひっぱって進む。水の守護神像前の、海に向かって半月形に突き出した
ミニスペースに連れていく。すぐ近くに氷川丸が止まっている。街灯の下で手を離し、
亜希の黒い瞳を見つめる。
「ホープダイヤは、所有した者の身に不幸をもたらす呪いのダイヤモンドだってね。
そういう伝説がある」
亜希の表情が陰る。
「偶然だ、濡れ衣だ、実際は全員が不幸になったわけではないという者もいる。ロマン
ティック・・・といっては宝石にとって迷惑だけど、いかにも事実だという風に吹聴する者も
いる。俺にとっては、そんなこと、どっちでもいいんだけどね」
亜希は黙って聞いている。
「亜希ちゃん、ホープダイヤを身につけちゃったね。どんな災厄がかかってくるかな・・・。
千年のはずの寿命が、人間なみの百年前後に縮まるなんていうのは、どうだい」
訝しげに渡を見る亜希。
「人生設計が大幅に狂うだろう? 国に帰るのはあきらめて、ずっとこっちで暮らさない?
俺と一緒に」
亜希が目を見開く。
「俺の時間を止めてくれなんて、情けないような気がして、いえない。これで勘弁してくれ」
「渡さん」
「亜希ちゃん、お姫さまだったね。軽食店のマスター代行・・・いずれはマスターの奥さん
なんて、嫌? でも、考えてみればこれも一国一城の主だよ。それに、マンションの人たちを、
直接の関わりはないけど、城下町に住んでる国民だと思ったっていいしさ」
「あの・・・」
「ALEXANDRITE EYE についての事情は啓二さんから聞いた。兄さんのこと、怒らないで
くれ。俺が無理に聞き出したんだから」
「渡さん、それを知ってて・・・」
「濡れ衣だろ? 亜希ちゃんは素直に生きてるだけだ、いいたい奴にはいわせておけ。
妙な奴が来たって、守ってやるから。できるだけのことはする。盾になってでもね。盾じゃ
意味はないけど、気持ちだけは」
「私・・・」
「覚えてないだろうけど、俺、亜希ちゃんのコンタクトレンズをはずした時を知ってるんだ。
きれいだよ。水色も、紫も、赤紫も。オフタイムの時は、見ていたいんだけど」
亜希は黙って渡を見つめている。やがて、視線をはずした。
「返事がないけど、嫌? 亜希・・・」
渡の言葉が終わる前に、亜希は激しく首を振った。
「いいえ、いいえ、いいえ」
渡は亜希をゆっくりと抱きしめた。街灯に二人の姿が照らされ、通りすがりの者が
口笛を吹くが、耳に入らない。
亜希の髪を撫でながら、渡は思った。キスする時って、目をつぶるのが普通だよな。
コンタクトのままでも、いいか。
水の守護神像のところにあるベンチに啓二が座り、一部始終を見聞きしていた。
「耳もいいし、夜目が効くからね。・・・だからね、渡くん、こういう時の、沈黙の意味
するところが、君たちと僕たちで逆なんだよ」


第5話(後半)終わり


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