1 アレキサンドライト店内
開店と同時に黒沢が入ってくる。
「おっはよーございまーす。いやあ、夏、真っ盛りだねえ」
「おはようございます」
カウンターで渡がいう。
「いらっしゃいませ」
水とメニューを持って亜希が黒沢のテーブルに行く。
「亜希ちゃん、おはよう。ねえ、汁粉スパゲッティなんて、ないよね。スープスパの」
亜希は変な顔をして渡に振り返る。
「お汁粉のスパゲッティって、ありますか」
カウンターで渡が苦虫を噛みつぶしている。
「ありません」
「だ、そうです」
「お手数かけてごめんなさい。じゃあ、スパゲッティカルボナーラとコーヒーと
アップルパイね」
「はい」
スパゲッティをかたづけて、アップルパイにとりかかる黒沢。
「んー。いつ食べても、おいしいねえ」
「ありがとうございます」
にっこり笑う亜希。
電話が鳴り、渡がとる。
「お馴染みのお方かにゃ」
「そうかもしれませんね」
電話を切った渡がいう。
「亜希ちゃん、布田さんのところにアップルパイ届けて」
「はい」
手早く支度をした亜希が出ていく。
客席20あまりの店内を貸し切りにして、黒沢がいう。
「元気だね。記憶が戻ってないようには、見えないよ」
「ええ」
自分用のコーヒーを入れながら渡がいう。
「その点さえ除けば、いたって健康です」
「記憶はなくても、アップルパイはちゃんと焼けるのね」
「ええ」
「ほかのお客さんは、なにも気づいてないし」
「よくも悪くも、つきあいが浅いからですかね」
「こればっかりは、亜希ちゃんの記憶が戻ってから、なんとかしてあげたいにゃ。
なーんか、寂しいよ」
おかわりのコーヒーを飲みほしていう。
「布田のおじいちゃん、おばあちゃんには例外で話しちゃったね。それでよかった
みたい。今までのおしゃべりをリセットして、一から、「孫娘の若いころそっくりの
女の子」とお友だちになってくれたし」
「ありがたいです」
3杯目のコーヒーを頼む。
「黒いコンタクトレンズも、忘れずにしてるのね」
黙って黒沢の顔を見る渡。「ごめん」という黒沢。
「詮索は、やめるね」
「こちらこそ、すみません」
話題を変えるように、黒沢はいった。
「ところで、カウンターの上のフォトスタンドは何? なんかのおまじない?」
スペードのエースが1枚、飾られている。
「自戒用です。それも、追究しないでください」
2 同日 午後
空っぽの店に一人の客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
コーヒーを頼んだ客は亜希にいった。
「この店、夜はメニューが変わるのかな。アレキサンドライトっていう名前
だけど」
「いいえ。メニューは同じなんですよ。早めに締めますし」
「変だなぁ。横浜のカメラマンに聞いて来たんだけどな」
渡がカウンターから口をはさむ。
「そういうことでしたら、ご相談にのりますよ。それから、亜希ちゃん、
ちょっとお使いに出てくれる? メープルシロップがなくなりそうだ」
3 同日 閉店後のアレキサンドライト店内
紅茶とジンジャーエールを「オーロラたちの饗宴」の前に置き、亜希が渡に
振り返った。
「これを通じて、私の父がここの様子を見ているんですね」
カウンターでうなづく渡。
「厳密にいうと、その絵が、ここで見聞きしたことを報告するそうだよ」
「不思議ですね」
感心したように絵を見る亜希。
「「オーロラたちの饗宴」に伝言を頼むと、それも引き受けてくれるってね」
「ふうん。そうですか」
渡が裏口の戸締りを確認しに行っている間に、亜希は「オーロラたちの饗宴」に
話しかけた。
「伝言、お願いね、「オーロラたちの饗宴」さん。・・・お父さん、それともお父さまと
お呼びすればいいんでしょうか。ええと、私は一応元気です。ここの生活は楽しい
です。ちょっとだけ、気になることはありますけど・・・。これなら、記憶が戻らなくて、
ずっとここにいてもいいかなっていう気がします。心配かけてるでしょうに、こんな、
勝手なことをいって、ごめんなさい」
4 赤井家 居間
渡がフレッドで、とある宝飾店の見取り図をチェックしている。
「侵入はいいけど、金庫が手ごわそうだよな」
ノックの音がした。
「渡さん、入っていいですか?」
ウィンドウを最小化して応える。
「いいよ」
私服に着替えた亜希が入ってきた。
「失礼します」
「もう、寝る? 2階に上がろうか?」
いろいろ試して見た結果、亜希の持って来ていたマウストラップは、渡と亜希が
一緒に入ろうとしない限り作動しないらしいとわかった。人数が二人ならいいのかと
紫にも実験に参加してもらったが、彼女は入れなかった。SILVER EYEの真意は
図りかねたが、渡としては、亜希の熟睡のために文句は言えなかった。亜希は安心
して眠れるのが元気の元になっているようだったし、渡もこのところ体調がよかった。
彼も入るとすぐに寝入ってしまい、起きるのもほぼ同時だったのだが、気持ちとしては
スペードのエースを使わずにはいられなかった。
「いえ、少しお話ししたいことがあるんです」
かすかに緊張を見せながら亜希がいう。フレッドの椅子を彼女に譲り、渡はおりたたみ式
の椅子を持ってきて座った。なんとなく、ソファは避けた。
「で、話って」
「今日、いらっしゃったお客さまです」
逡巡したのち、切り出す。
「FAQだって教わっていたことを尋ねたお客さま、2、3日前にも、やっぱり見えましたね。
なんだか、いい回しが、ありがちっていうより決められたものみたいに感じます。この
間も、私、あの言葉をいったお客さまが見えた時、お使いに行かせられたし。追い出
されたみたいで」
背中に汗が流れるのを自覚しながら、渡は亜希の言葉を聞いていた。
「あの、失礼な推測をして、ごめんなさい。渡さん、もしかしたら副業をやっていませんか?
それも多分、人にあまり知られたくないようなことを」
知られたくないも何も、違法行為だ、と心の中で答える。
「責めるわけじゃないんです、軽蔑するわけでもないんです。ただ、教えてもらえたら、
そういうお仕事のお客さまがいらした時、私もちゃんと応対できるかなって思って。あの、
その、私は受け答えの仕方さえ知っていればいいのかもしれませんけど」
見習いとはいえ、チームの片割れだったんだけど、と思う。記憶がなくなる直前は
警備員も倒してくれたし。いつの間にか、しっかりパートナーになってたじゃないか。
「ああ、もう、それって口実です。本当は私、渡さんのことを知りたいんです。それだけ
です。教えて・・・いただけませんか」
紫色の瞳が必死になって渡を見ている。亜希の視線から逃れられずに、渡はいった。
「確信犯で、誇りを持ってやってきたけど、君に話すのが怖い。それで嫌われたらって
思うと」
「そんなことありませんから。お願い、渡さん、話してください」
父も祖父も同じ恐怖を乗り越えたのだろうかと渡は思った。
5 告白
渡の話を聞き終えた亜希は呆然とした。
「夜間営業・・・ですか」
「ひいじいさんの代からの家業だよ。軽食店の歴史と同じだけの長さがある」
気力が果てた声で渡はいった。
「昼の営業と夜間営業は、形こそ違え、本質は同じなんだ。そういう方針でね。
昼のメニューでまかないきれない部分を、夜間の仕事で補う。サービス業さ」
「他人様の依頼も受ける泥棒さん、ですか」
「たまに、自発的にもするけどね。物、金が狙いなんじゃなくて、腕試しと遊びで」
亜希は、しばらくの間黙っていた。
静かに渡が尋ねる。
「呆れた?」
ゆっくり、亜希が首を振る。
「いいえ。いけないことですけど、どうしても必要なら、お客さまのかわりにかぶっても
いいんじゃないですか。もう、二度とオーダーされないように約束していただければ」
「ありがとう」
紫色の瞳を見ながらいう。たった5つの音(おん)にこれだけの重さがあったなんて、
と渡は思った。
「だけど」と亜希がいう。
「私の両親って、そのことを知っているんですか? 私を社会勉強のためにここへ預けた
そうですけど」
堪えきれずに笑いながら、渡はいった。
「知ってるも何も、亜希ちゃんのお母さんは、ここの初代ウエイトレスだよ。ひいじいさんの
昼と夜間営業の相棒でね」
「年齢が合わないと思いますけど」
「それを話すと、夜が明けるよ。もう、今日はおしまい。くたびれた」
「はい。ええと、2階に行きます?」
「ごめんね。今日だけは別々に寝かせてくれる? 何をしでかすか、自信がないや。
たとえ、いつもすぐに眠っていてもね」
きょとんと亜希がいう。
「いいですよ。でも、自信がないって?」
「こういうこと」
立ち上がって、亜希に近づく。両肩に手を置いても亜希は黙っていた。手を滑らせて
肘の少し上で止める。軽く引っ張ると亜希は立ち上がった。片手で腕をつかんだまま、
もう一方の手で髪を撫でる。
「啓二さんに、ブラッシングしてやってくれっていわれてたけど、忘れてた」
「ほかにして欲しいこともありますけど」
「そう?」
腕から手を離して頬を撫でると、亜希は目をしばたいた。
「同じことを考えてるのかな」
顎を上げさせると、亜希は目を閉じた。
6 翌日 アレキサンドライト店内
黒沢がスパゲッティカルボナーラを食べている。
「今日は、布田さんから電話は来ないのかにゃ」
カウンターから、渡が応える。
「昨日の今日なので、多分ないと思います」
「ふーん。あ、そう」
亜希はレジのところで、機嫌良く花瓶の位置を調整している。
「渡くーん、ちょっといい話があるから、耳貸して」
「はい」
渡が黒沢の席に行く。黒沢は声をひそめていった。
「あぶない」
「は?」
じとっ、と横目で渡を見る。
「昨日までと雰囲気が違うよ、お二人さん。何かあったの?」
渡は狼狽を隠せなかった。
「ええ、まあ、ちょっと」
「今の亜希ちゃんに手を出したら、まずいよ。自重したら?」
「はい。すみません」
「元気だけど、やっぱし、早いとこ記憶が戻った方がいいかもね」
渡はカウンターの上のフォトスタンドに目をやった。
「そうかもしれません」
7 ファイヤークラッカー
黒沢がアップルパイに手をつけ始めた時に、新しい客が入ってきた。
真っ赤なTシャツを着ている。
「おはようございます。おお、亜希さん、夏の日差し以上にまぶしく、美しい」
「おはようございます」
「いらっしゃいませ」
渡と亜希が応える。
「金城さん、これ以上気温が上がりそうなアホなこといわないでよ」
「私は正直なだけです」
「正直って・・・金城さんの辞書、どっか間違ってるよお。で、今日の恰好は
なんなのよ」
「オフタイムなんです」
B.L.Tサンドイッチとコーヒーを頼んでから金城がいう。
「亜希さん、浴衣を着て花火見物に行きませんか。あなたは花火を見る、私は
浴衣姿のあなたを見るということで」
「着物はあまり好きじゃありません」
「一竹辻が花を持っている人が何をいうのです」
「あら、ご存じでしたか」
「初めてお会いした時、お召しになっていましたよ」
「そうでしたっけ」
「なんということだ、私たちの運命の出会いを忘れたのですか」
笑って誤魔化している亜希。黒沢は「浴衣で縁側で将棋でも指したいよね」と、
のんびりという。
やがて、二人は連れ立って席を立つ。亜希に螢狩りの体験を話している金城を
放っておき、黒沢は渡にいった。
「歌を忘れたカナリアの扱い方は知ってるけどさあ、記憶を落っことした子猫ちゃんか
うさぎちゃんは、どうすりゃいいんだろうねえ」
8 数日後 晩
渡と亜希が、とある資産家の家に忍び込んでいる。警備員室を通り越し、
監視カメラの目をふさぎ、金庫室の前まで来た。渡はドアを開けるのに苦心
していた。
「これは、駄目かもしれない」
「弱気にならないでください」
「最新式なんだよ」
先日、警報装置を鳴らしてしまった金庫と同じ会社の製品である。手間取って
いる間に警備員の巡回時刻が迫ってきた。
「今夜は撤退かな」
「でも、お客さまの都合が。期日が近いんでしょう」
「無理して捕まったら、元も子もないよ」
渡はあきらめ顔になっている。亜希は遠慮がちにいった。
「私に触らせてくれませんか」
「亜希ちゃん、経験ないでしょ?」
「はい。でも、なんとなくできそうな気がするんです」
亜希は、目撃された時の用心にコンタクトレンズをしている。その目を見て、
渡はいった。
「じゃあ、やってみて」
「はい」
仮にしくじったとしたら、何としてでも亜希だけは逃がす。そう決めて、立つ位置を
入れ換える。亜希は、ダイヤル部分に触れるわけでなく、自然にドアに手を添えて、
囁いた。
「開けてもらえるかしら? もちろん、人を呼んだら嫌よ」
軽くたたく。
「ね?」
何をいいだすのかと思って渡が見ていると、かすかにキキ・・・と音がする。ダイヤル
周辺に虹がきらめき、カチリと音がした。渡は目を見開いた。
「透子さんのダイヤモンドファイヤ・・・。いや、もっと気楽にやってる」
「渡さん、急ぎましょう」
亜希がドアを開ける。警報はならない。我に返った渡は、亜希に続いて金庫室に
入った。
9 2時間後 アレキサンドライト店内
帰ってきた二人が夜食をとっている。ホットケーキを頬張った亜希が嬉しそうに
している。
「私でも、役に立ちましたね」
「そうだね。まいったよ」
苦笑している渡。ホットケーキと一緒に、相変わらず試作中のワインゼリーを
食べている。
「私にも父みたい力があるんですね」
「いや、さっきのは、お母さんの方のだよ」
「母の、ですか?」
「もっと上の世代からのだと思う。考えたら、すごいね。父方と母方の両方の
力を受け継いでいるんだから。そういえば、来た早々にブースターを披露して
もらったっけ」
「ブースターって?」
言いよどむ渡。
「お母さんの力だよ。でも、この話しは、またね」
10 翌朝 絵の中の迷宮
亜希の身動きが伝わり、渡は目を覚ました。アレキサンドライトのカウンターの
中に、二人はいた。
「おはよう、亜希ちゃん」
「おはようございます、渡さん」
亜希を助けて立ち上がる。本物とそっくりの「店内」を見て、渡がため息をつく。
「どうして、朝にはこの光景になってるんだろう。最初は、店の中そのものかと
思ったぞ」
「どうしてでしょうね」
亜希も不思議そうにいう。二人そろって迷宮から抜ける。202号室、亜希の
部屋に出る。
「すぐに降りていきますね」
シャワーを浴びに、亜希は浴室へいった。渡も彼女の部屋を出て1階へ向かう。
「この頃、パジャマを着てないぞ。洋服を着たまま、寝るものだから」
11 開店後のアレキサンドライト店内
アップルパイをたいらげた黒沢が新聞を読んでいる。
「ところでさ、お盆が近いけど、渡くんたちはどうするの?」
カウンターで渡がいう。
「遊園地にでも行こうかって相談してます」
亜希は「オーロラたちの饗宴」の前で花瓶に花を挿している。
「渡さんが、池袋のサンシャインシティが面白そうだって教えてくれたので、そこに
なりそうです」
「まあ、仲良く行ってらっしゃい」
文化面を開いた黒沢が声を上げた。
「ホープダイヤが来るんだぁ」
その声を聞いて、亜希の手が止まった。手元の花にも、目の前の「オーロラたちの
饗宴」にも焦点が合わず、ぼんやりと宙を見る。
渡が黒沢に聞き返す。
「ホープダイヤって、スミソニアン博物館のですか?」
「うん、かの有名な呪いの青ダイヤだよ」
黒沢は新聞を持ち直す。
「お盆に、横浜のデパートで展示会だってさ。警備陣なんて、大変だろうなあ」
「ずっと前に、日本に来ましたね」
渡は、司(つかさ)・・・曾祖父のことを思いながらいう。
黒沢はうーんと考え込んだ。
「たしか、50年以上前に来てたねえ。それと、さらにその20年前。で、そん時、
一回盗まれたはずだ。・・・って、どーしておいら、知ってるんだっけ」
渡は黒沢を見守っている。
「そうだ、おじいちゃんから聞いたことがある !」
黒沢は渡を見る。視線がぶつかる。黒沢は視線をはずした。
「まあ、今度は盗まれないといいなって思うけどね」
「そうですね」
気を取り直して、黒沢は席を立った。
「仕事しなくっちゃ、お勘定お願い」
黒沢がレジに向かう。亜希が、ぼうっと立っている。
「亜希ちゃん?」
亜希が、はっとなる。
「はい、黒沢さん」
亜希がレジを打つ。
「暑いからさあ、体に気をつけようね」と、いいながら黒沢は出ていった。
渡が言った。
「ホープダイヤか。因縁浅からぬ宝石が来るね。・・・あ、覚えてないか」
思い詰めた顔で亜希がいう。
「渡さん、ご迷惑でしょうけど、ひとつお願いがあります」
渡が笑う。
「迷惑って、何を遠慮してるの? いいよ。なに?」
「お客さまのいない夜間営業一件、手伝ってください。ホープダイヤを一晩
借りたいんです」
「なにーっ !?」
渡は仰天した。
「亜希ちゃん、何考えてるの」
「呪いのダイヤって呼ばれている「子」と、話したいんです。それだけです。
お願いします」
「変に関わって、呪いが振りかからなきゃいいけど」
「それは濡れ衣だって、父は言ってました。会いたいんです。濡れ衣を
着せられている宝石に」
渡は首をひねった。今の亜希の発言におかしなことはなかったか。
「亜希ちゃん、今、お父さんがいってたって、いわなかった?」
それがどうしたという顔をする亜希。
「いいました」
「その部分だけ、覚えてるの?」
「何を覚えてるんですか?」
不思議そうに亜希がいう。
「渡さんの方こそ、珍しいですね。私を「ちゃん」づけで呼ばれるなんて。
いつも、「さん」づけなのに」
え? と亜希を凝視する渡。亜希は、かすかに頬を染めている。
「その方が嬉しいですけど。渡さん、3か月たっても、「さん」づけをされるから、
少し寂しかったんです」
第5話(前半)終わり
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