1 アレキサンドライト店内
ドアを入ってすぐのところに置かれた七夕飾りを揺らしながら、黒沢が入ってきた。
「おっはよーございまーす。いやあ、こういうディスプレーもいいねえ」
「おはようございます」
カウンターで渡がいう。
「いらっしゃいませ」
水とメニューとその他1つ、2つの物を持って亜希が黒沢のテーブルに行く。
「おはよっ、亜希ちゃん。あのさあ、バナナスパゲッティなんて、ないよね」
すっかり慣れた亜希が笑って答える。
「ごめんなさい、黒沢さん。ありません」
「はーい。そんじゃ、スパゲッティカルボナーラとコーヒーとアップルパイね」
「はい」
「ところで、それは何よ、亜希ちゃん」
亜希は短冊と細字のサインペンを持っている。
「お客さまにも、短冊を書いていただこうというサービスです」
「あんがと、ねっ」
願い事をさっさと書いた黒沢は席を立つ。
「好きなところにつけていい?」
カウンターから渡がいう。
「はい。目立つところでも、後ろの方の人目につかないところでも」
軽い足取りで移動した黒沢は、手頃な枝に短冊を結んだ。
「あれ? これって何?」
1枚の短冊に見慣れない文字が並んでいた。いわれた亜希がのぞき込み、ちょっと
いたずらっぽくいう。
「私のです」
「あの、読めないんですけど」
「お星さまにだったら、きっと読めますよ」
「これ、亜希ちゃんが育った国の字?」
「さあ。暗号かもしれませんね」
「むーう。解読に燃えようかしらん」
「黒沢さん、ご注文の品、できましたよー」
渡がいった。


2 暗号解読者
黒沢がでていってからしばらくののち、啓二がやってきた。「準備中」の札を下げ、
渡がサービスの紅茶を入れる。ひといきついてから、啓二がいった。
「今日明日のことじゃないけど、近いうちに僕はちょっと国に帰るから、亜希をよろしく」
「どれくらい、向こうに戻ってるんですか、啓二さん」
「行ってみないと何ともいえないけど、とりあえず、1か月弱かな」
「へえ。王室で、何か特別な行事でも?」
「そんなところ」
「ご苦労さまです」
亜希は黙って聞いている。
「亜希さん、里心がついた? 少しの間、武者修行の中休みでもする? 店の方は俺
だけでも何とかなるから、ついて行っていいよ」
「いえ、ここにいます」
「そう? 無理しなくていいけど」
「いえ、心配いりませんから」
うなづいて聞いている啓二。
亜希が啓二にも短冊とサインペンを渡す。日本語で「健やかに」と書いた彼は、
七夕飾りのところへ行った。くくりつけてから、亜希の短冊に気づく。
「これは・・・」
「お兄さま、読んじゃ駄目っ」
亜希があわてて止める前に、啓二は目を通してしまった。意識して表情と語調を
変えずにいう。
「ふうん。そうか」
「やめてっ、いわないで」
「いわないよ」
はずして、「オーロラたちの饗宴」に向ける。絵に近づけたり、離したりして、読ませる
ような動作をする。
「これは、字は知ってたかな」
「お兄さまっ」
亜希が真っ赤になっている。啓二はにっこりと笑った。
「わかったよ。もう、しないから」
短冊を元のように結び直す。
渡は兄妹の会話も耳に入らず、開発中の自家製ワインゼリーの味見に集中していた。


3 夕刻のラッシュアワー
とある駅のプラットホームに渡と亜希が立っていた。
サラリーマン風の恰好をした渡が亜希にいう。
「乗客の視線の盾になるっていう役割もあるけどね、今回はなし。離れて、
普通にしていてくれ。まかり間違って俺が捕まっても、手出し無用だ」
通勤スタイルの亜希が応える。
「はい。気をつけてくださいね」
「ああ」
電車がプラットホームに入ってきた。人波に乗りながら、二人はターゲットに
前後して乗り込んだ。


4 1時間後 喫茶店「アスコット」
臨時のスリ二人組が、サンドイッチとコーヒー、紅茶の食事をとっている。
「サンドイッチもおいしいけど、ホットケーキが恋しいです」
ちら、と渡の顔色を窺いながら亜希がいう。
オーダーされた品を掌に乗せていた渡は、素知らぬ顔でいった。
「アスコットのメニューに入ってるよ。見落としたね」
亜希は黙って渡の掌に視線を移した。ウイスキー色のカフスボタンが2つ。
柔らかい光沢の中に小さな虫が眠っている。
「琥珀(こはく)ですね」
「木の涙ってやつだ」
針葉樹の樹脂が土の中に堆積し、化石化したもの。その際、小動物や植物片が
入り込むことがあり、珍重される。蟻、蜂、爬虫類などを含んだものは宝石として
だけの価値でなく、学術的にも価値を認められ、博物館に収められることもある。
「かすみさんの石ですね」
「そうだね」
掌でころがす。
「火の中にくべたら燃えるよ。昔、ドイツでは燃料に使っていたそうだ」
「そんなこといわないでください」
「燃えた時の芳香は素晴らしいってね。香料としても使われていたそうだから。
それでも、駄目?」


5 数日後 アレキサンドライト店内
食事の済んだ黒沢が店を広げている。
「結婚式のビンゴで当たっちゃってさ。おいら、使わないから、よかったら、もらってよ」
メンズ用コロンと琥珀のネックレスである。
渡は困り顔をする。
「俺、コロンなんて使いませんよ」
「だったら、これからつけてみるとかさぁ」
「それなら、黒沢さんがすればいいでしょう」
「そん時ゃ、彼女に見立ててもらうから、いいもん」
琥珀のネックレスを手にした亜希がいう。
「黒沢さん、まだ結婚はされないんですか」
「もうじき、決まるかもねっ。ちゃんと七夕にお願いしたから」
「そうだといいですね」
いつもの典型的メイドスタイルの上からネックレスをする。
「うん、かわいい、かわいい」
「ありがとうございます。いただきますね」
「わーい。貰い手ができたあ」
にこにこする黒沢。
「そうそう、亜希ちゃん、それをしたまま嘘をついちゃ駄目だよん。琥珀の
ネックレスをしたまま嘘をつくと窒息するっていう伝説があるからね」
「覚えておきますね」
黒沢は渡に向き直る。
「そんじゃ、渡くんも、それもらってね」
「いりませんてば」
「そーいわずに、お試しだけでも」
アラミスの新作である。試しに、ナプキンにふきつけてみる。
「こんな強い香り、似合いませんよ」
「だったら、アルコールで10倍くらいに希釈(きしゃく)すればあ?」
「それでも強そうです」
「もう一声の、15倍」
「そうまでして、つけますかっ」
結局、黒沢に押し切られ、渡はコロンを受け取った。
「たんすのこやしになりますよ」
「いつか、使う日が来るかもしれないって」
「じゃー、またね。仕事が押してて、さっ」と言いながら黒沢は出ていった。
「まいったよな」
「でも、いい香りですよ」
「恥ずかしくって、つけられないぜ」
亜希にカウンターをまかせて、居間へ持っていく。
「アビルージュやバーバリー・フォア・メンじゃなくて、まだましだったか。翔さんの
フィリアスっていう柄でもないしさ、俺」


6 翌日 アレキサンドライト店内
黒沢が食後のアップルパイを食べている。渡が開発中のワインゼリーに気を
とられている隙を狙って、黒沢はこっそりと亜希に聞いた。
「で、さ。昨日、渡くん、あれからどーだった? こっそりコロンつけてたなんてこと、
ないの?」
苦笑する亜希。
「さあ。全然わかりません」
「亜希ちゃんて、渡くんのこと、ちーとも見ていないわけ?」
「だって、プライベート空間には入っていけませんもの」
「そりゃそうだけどさ。それにしても、極端じゃない? お二人さん。変な意味でなくて、
もう少し打ち解けてもいいんじゃないのかなあ」
あやふやに笑う亜希。


7 数日後 日中 都心
とある宝石店の下見帰りの渡と亜希が、デパートのフレグランスコーナーにいた。
インポートコーナー覗く亜希に、渡がつかず離れずにしている。亜希が「ミル」の
テスターを手にする。名前の由来の通り、千種類もの香料を使った作品。花の
香りの中に官能的で深みのある香りがする。ジャン・パトゥのもの。
「まだ、着こなせないなぁ」
チーフのネームプレートをした女性に会釈して、亜希はそのコーナーを後にした。
渡もそれに続く。


8 翌日 アレキサンドライト店内
アップルパイを食べていた黒沢に、亜希が尋ねた。
「黒沢さんのお仕事って、何ですか」
「あんまり言いたくないなぁ、恥ずかしい」
「そのうち教えてくださるって、おっしゃっていたじゃありませんか」
「今がその、「そのうち」だと思う?」
「思います」
頭をぽりぽり掻く黒沢。
「おいら、小説家なのよ」
亜希の瞳が輝く。
「やっぱり、そうですか !」
「どーして、そう思ってたの?」
「お仕事に絡んだことをお話しされていた時の今までの様子から、なんとなく」
「そうなの」
仲良く笑い合う黒沢と亜希。
「じゃあ、問題。おいらのペンネーム、わかる?」
「そこまでは、わかりませんよお」
「おじいさんのペンネームは来井 円(くるい えん)だけどね」
カウンターでグラスを拭きながら、渡がいう。
「頭にユーモアをつけないと嘆くSF本格推理作家。普通のミステリーも書くけどね、
1作こっきりのSF的特別ルールを敷いた世界の中で、そのルールに絡んだ事件と
解決をする話が面白くてね。百歳を越えて、なお現役だ。ここ数年、また切れ味が
よくなってね。ファンは大喜びさ。そういえば、ずっと覆面を通してるんだ。これもまた、
すごいことだよ」
「知ってますよ。母が好きで、私もこっちに来る前から、ずいぶん読んでましたから」
「そーお? まいっちゃうな」
照れ笑いをする黒沢。
「体がほてっちゃうよ。のどがかわく。コーヒーもう一杯、ちょーだい」
「はい」
渡と亜希が同時に応える。
「それで、黒沢さんのペンネームは?」
好きな女の子の名前を告白するように、黒沢はいった。
「おいらのペンネームも、同じなの」
目を丸くする亜希。渡もコーヒーを注ぐ手を止める。
「合作ですか?」
「じいさんのゴーストになっちゃったんですか?」
「二人一役なのよ、今の体制は。いつかは、おいら一人が名乗ることになるけど」
新しいコーヒーが運ばれる。一口飲んで、話し続ける。
「念を押すけど、ほかの人には言っちゃ駄目だよ。半分、家族みたいな感覚だから
話すんだよ。・・・おいらが作家デビューすることになった時、おじいちゃんはまだ
覆面をやっていたのよ。さっき、渡くんがいったように、今でもだけどね。そん時に、
おじいちゃんとおいらで相談したの。このまま、読者さんの知らないところで来井 円の
リレーをしようって」
黙って聞いている、渡と亜希。
「情報化社会っていって、何でもすぐに知られてしまう世の中じゃない。だけどさ、
たまには謎のことがあってもいいじゃんって、おじいちゃんは覆面を通してた。
だったら、徹底しようって。おじいちゃんは現役の時も、引退してからも、正体を
明かさない。おいらは来井 円をおじいちゃんと同じく名乗らせてもらって、一人に
なってからも覆面で通す。2代目襲名披露もしない。と、いうか、2代目だともいわ
ない。ずっと、ただの来井 円で行くの」
渡がいう。
「言い方が変だけど、若い黒沢さんがずっと作家活動を続けたら、べらぼうに
長生きな人だと錯覚されませんか?」
「それも狙いよ。現代のおとぎ話になるね」
「もしかしてリレーかも、って考える読者さんも出てくるんじゃありませんか」
亜希もいう。
「それはそれで、また良し、さ。気づく人は気づく、気づかない人は気づかない。
推測されても、肯定も否定もしないつもりだから。おいらの経歴に関心がなくて、
ただ読むだけの人もいるだろうしね」
「どっかから、秘密が漏れませんか?」
渡が心配そうにいう。
「それがあるから、おつきあいする出版社さんは絞ってるよ。口の固いところ、
信用できるところに。一緒に不思議を演出してくれる協力者だもんね。ある程度の
広告効果を犠牲にしてつきあってくれてるわけだから、こっちも作品の質でお応え
しようと、がんばってるんだよん」
「ここ数年で、前以上に筆が冴えてきたのは、その辺の影響もありますか?」
「そうかもね。お互いの仕事がいい刺激になってると思うよ。おじいちゃんも、
呑気なようで、やる時には集中する人だから」
まとめをするように黒沢はいった。
「おいらが年をとった時のことはわからない。でも、この仕掛けに共鳴してくれる人が
いて、物書きになれる人が現れたら、血がつながっていても、そうでなくても、その人と、
またリレーをしたいと思ってるよ。人の命はそんなに長くないけど、来井 円は死なない
のさ」
黒沢が照れをごまかしながら出ていったあと、亜希がいった。
「黒沢さんとおじいさま、いい関係ですね」
「そうだね」
食器棚から皿を取り出すふりをして後ろを向き、渡はひとりごちた。
「「そのうち」っていいながら約束を守らない馬鹿野郎が、どこかにいたな」


9 同日 夜
昨日下見をしていた宝石店に、渡と亜希が忍び込んでいた。
「たまに、依頼者なしの仕事をしないと、煮詰まるんだよ」
「いいお品が揃っていましたね。いけないことだけど、わくわくします」
金庫を開けるのに苦労する渡。
「意外と骨があるな、こいつ」
何かいおうといて、やめる亜希。
しばらく手間取ったのち、鍵が外れた。
「よーし」
金庫を開け、渡が手を入れようとしたその時に、警報ベルが鳴った。
「しまった」
一番手前にあった袋だけ引っつかみ、二人で出口へ向かう。あと、ドアひとつで
外という所まで来て、3人の警備員とご対面した。
「おとなしくしろっ !」
リーダーと思しき警備員がいう。
「亜希、逃げろっ」
彼に殴りかかりながら渡がいう。リーダーらしい警備員を倒したところで、渡は後ろに
亜希の声を聞いた。
「マウストラップ」
渡が振り返ると、残り二人の警備員が呆然とした表情を浮かべ、膝を落とすところ
だった。


10 約1時間後 赤井家 居間
電源の入っていないフレッドの前に渡が座っていた。ぼんやりと真っ黒なディスプレイ
を見ている。
「普通の女の子に見えても、やっぱり違う種族なんだ。このごろ、忘れてた。しかも、
お姫さまでね。ああ、王族は能力が段違いなんだったっけ? 」


11 同時刻 亜希の部屋
クロスステッチ刺繍のクッションを抱えて、亜希が泣き笑いしていた。
「あはっ、呼び捨てで呼ばれて、命令形でものをいわれた。嬉しい。とっさだから、
「さん」づけするヒマがなかっただけですよね。でも、いいです。・・・心が軽いの。
今夜は、あれもはずして寝ちゃおうかな」


12 翌朝 アレキサンドライト店内
開店時刻。首を傾げながら渡がドアの鍵を開けた。待ちかねたように黒沢が
入ってくる。
「おっはよーございまーす。小学校の夏休みが始まったねえ。なーんか、街の
ざわめきも変わるね」
「おはようございます」
きょろきょろと店内を見回す黒沢。
「亜希ちゃんは、今日、お休み?」
「まだ降りてきてないんです」
「お寝坊さんかしら」
「初日以外、遅刻はなかったんですけど。おかしいな」
「急病とかあ」
「まさかね」
窓の外を紫色の影が通りすぎる。めざとく見つけた渡はとっさに外に出た。
ストレートロングの髪を背中の中程まで伸ばした後ろ姿に声をかける。
「亜希さん?」
ゆっくりと歩いていた相手が立ち止まった。渡の方を向く。「シャレード」から
抜け出したような襟だけ白い紫色のワンピース。イアリングはない。怯えた
表情の亜希を見て、一瞬誰かと戸惑う。すぐに、いつもと雰囲気が違う理由に
気がついた。
「亜希さん、その目、どうしたの?」
緑を帯びた透明感のある明るい水色。その色の瞳が渡を見返していた。
「渡くーん、どうしたのよ」
黒沢が外に出てくる。渡と、そして対峙している亜希を見る。
「おや、亜希ちゃん、私服でどこかへお出かけ? って、どーしたのよ、その目は。
カラーコンタクトレンズでおしゃれ?」
二人に見つめられた亜希は、ようやく押し出したような声でいった。
「あの・・・「アキ」って、私のことですか?」


第4話(前半)終わり


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