1 アレキサンドライト店内
開店と同時に黒沢が元気よく入ってきた。
「おっはよーございまーす。いやあ、毎日よく降るねえ」
「おはようございます」
カウンターから渡が応える。
「いらっしゃいませ、黒沢さん」
亜希が水とメニューを持っていく。
「梅雨時でもお元気ですね」
「うん。雨が降ったら踊っちゃえってタイプだからさ。ジーン・ケリーの「雨に唄えば」なんて、
知らない?」
「フレッド・アステアの方が好きです」
「あー、はいはい、燕尾服の似合うミュージカルスターのナンバーワンね。「渚にて」とか
「絹の靴下」とか「トップハット」とか、主演作品がいっぱい」
「代表作は「イースターパレード」ですね」
「いいよねえ」
その場で踊り出しかねない雰囲気の黒沢。と、空腹を思い出して、
「ところで、イチゴスパゲッティなんて、ないよね」
「え?」
亜希は、カウンターの渡に振り返る。
「ありませんよね」
「うちのスパゲッティはナポリタン、ミートソース、ボンゴレ、シーフード、カルボナーラです」
「だったよね。じゃあ、コーヒーとスパゲッティカルボナーラ。食後にアップルパイ、ねっ」
「はい」
亜希が応える。
スパゲッティを食べ終わってから、亜希を呼び寄せる。
「亜希ちゃん、誕生日は6月だったよね」
「覚えててくださったんですか」
「日は覚えてないけど、今月だってことだけは」
「何日かは黒沢さんにお話していません」
「いつ?」
「今日です」
「もっと早くいってよねーっ」
テーブルに突っ伏す黒沢。
「プレゼント贈るタイミングがずれるーっ」
「いりませんてば」
「うんにゃ。あげたいの」
体を起こす黒沢。
「なにがいいのっ、亜希ちゃん」
「結構ですってば」
「受け取ってもらえなきゃ、もうお店に来ないよん」
「それは困ります」
「じゃあ、何がいい?」
「花束、ですね」
うっとり、という顔で答える亜希。
「駄目といっても押し切りそうだな、黒沢さん」
カウンターで成り行きを見守っている渡。
「やっぱり、年と同じ本数のバラってやつ?」
「年齢マイナス1本を花の宅配便で届けて、残り1本を自分で持ってきて
くれるっていうのが、素敵ですよね」
「細かい技を要求するのね」
「そこまでされなくて、いいですよお」
「んじゃ、紫陽花(あじさい)でどう? 赤いのと青いの、両方あげる」
「どうして紫陽花なんですか」
「なんとなく、イメージに合いそうな気がするから」
「黒沢さん、お仕事は何をされてるんですか」
「どうして話がそこに跳ぶのよ」
「なんとなく、気になったので」
黒沢が何かいおうとしたところに、新しい客が入ってきた。何種類もの花を
まとめたカラフルで大きな花束を重そうに抱え、その影から黄色いスーツが
見え隠れする。雨の雫(しずく)が葉と花びらに乗って光っている。
「こんにちは。お久しぶりです」
「いらっしゃいませ」
「あ、いらっしゃいませ」
「なんだ、金城さん、学童用雨傘のお化けかと思ったじゃないの」
「伊達男は原色を着こなしませんとね」
花束を抱え、腰に力を入れて前に進む。亜希の所まで来て、
「どうぞ、亜希さん」
と差し出した。
目を丸くする亜希。
「どうしてですか?」
「街を歩いていたら、目に止まって、無性にあなたに見せたくなったので」
ぶーっと噴き出す亜希。
「お花のバーゼンセールでもやっていたんですか?」
「かわされましたな。では、口説くのは抜きにして、あらためて、お誕生日
おめでとうございます」
「ありがとうございます」
受け取ろうとして、はっと気づき、渡の方を見る。
「花に罪はないからね、いただけば?」
「はい」
「では、私自身は罪人(つみびと)なのでしょうか」
「そりゃー、女の子引っかけて前科20犯なんじゃないのー? 金城さん」
「なにをいう。もうじき3桁の大台に乗ります」
花束をなんとか抱えて、亜希がいう。
「渡さん、お店のどこに飾りましょうか」
「自分の部屋に置いていいよ。早めに花瓶に移してやったら?」
わずかに反応が遅れて、亜希は、「はい」といった。
「大きい花瓶がなかったら、家の納戸から持っていっていいよ。当分、
使わないから」
うなづいて、亜希は店内から姿を消した。客席では黒沢と金城が背中合わせの
席につき、共に椅子に横向きに座って話していた。通路に足を突き出し、顔が
カウンターの方を向いている。
「あんな大きな花束かかえて、よく雨に濡れなかったね。傘、させなかったでしょ」
「タクシーで来ましたから、店の前で降られただけです。気づきませんでしたかな」
「で、いつのまに亜希ちゃんの誕生日を聞き出していたのよ」
「先日、初めて来た時に」
「おいら、記憶にないんですけど」
「電光石火でさりげなくやりましたので」
「まめなのね。今月、うんにゃ、今週は何人の女の人に花束あげたの?」
「まだ一人目ですよ。女性の誕生日を聞いたからには、花を贈らなければという
強迫観念にかられるものですから」
「そんなに花買って、破産しない?」
「弁護士料で稼いでいますので、大丈夫」
「悪い人と組んじゃ駄目よ」
「悪いことは一人でする方が楽しいんです。妙齢の女性と二人なら話は別ですが」
「背中からさされないよーにね」
カウンターで渡がぼやいた。
「会話を聞くのは二回目なのに、もう、ずっとお馴染みみたいな気がする」
「デジャ・ヴの一種じゃない?」
「遺伝子に刻み込まれた記憶かもしれませんな」
渡はため息をつきながらいった。
「それで、金城さん、ご注文はお決まりですか? ちなみに、今日の午後は休みです」
2 同日 午後 新宿
リバーシブルジャケットの水色の側を着た渡と、同じ色のワンピースを着た亜希が
連れ立って歩いている。午後から雨はやみ、束の間の晴れ間がのぞいている。
新宿駅西口のインド料理店「ボンベイ」で遅い昼食をとり、中央公園を散歩している。
「あとはウインドーショッピングと夕食? こんな誕生日プレゼントでいいの?」
ややぶっきらぼうに渡が尋ねる。
「はい。おつきあいありがとうございます」
かすかに頬を染めて亜希が答える。足取りが軽い。このまま地面を軽く蹴れば、
宙に浮き上がりそうである。
「お使い以外で、ひとりで出歩くのが怖いものですから」
「オフの時は、だいたい202号室にこもってるね。やっぱり、お姫さまは箱入り?」
「そういうわけじゃないんですけど。あの、お姫さまはやめてください」
「俺はお姫さまのお付きを任命されたナイトらしいから」
「あの・・・そういうとり方をされるとつらいんですけど」
「愛想なくて、ごめんよ」
しゅんとなる亜希。彼女の表情を見て、あわてて言葉を継ぎ足す。
「マスター代行にまだ慣れてないんだよ。どうにも余力がなくて、ほかに気が
回りきらなくてさ」
「ご迷惑おかけしてます?」
「無理だったら、出てこないって」
亜希はなんとか気を取り直して、「じゃあ、お店を回りましょうか」といった。
3 宝飾店 「香栄草」
とある大手書店ビル1階フロアの宝飾店前に二人が来ていた。隣に革製品の店と
ライターの店、正面に標本としての鉱物を扱っている店が並び、街中の時間の流れ
から一線を画し、独特な雰囲気を持っている。店長と思しい50代の男性が渡たちを
迎える。
「おやおや、お久しぶり。お父さんはお元気ですか?」
「こんにちは、南(みなみ)さん。おふくろと一緒に旅行にいってますよ」
「仲がよくて、いいですね」
渡が亜希にいう。
「赤井家の者たちが代々続いて、なにかと世話になってる店だよ。じいさんと親父が
エンゲージリングを買って、ひいじいさんまで、かすみさんにイアリングを贈った店さ」
「なんだか、いいですね」
「それで、渡さんはどういうご用件なのかな」
「幸せを売る男」の笑顔で南が尋ねる。
「今日はお嬢さんのエスコート。どうするかは、彼女に聞いてくれる?」
南が亜希に笑いかける。
「何かお探しですか」
「見るだけ、ですけど」
「どうぞ、ご遠慮なく見ていってください。それで?」
はにかみながら亜希がいう。
「イアリングを。アクセサリーでなくて、ジュエリーの」
「こちらですね」
南が案内する。
「今はピアスの方が、ずっとお品が多いですよ。穴、開けますか」
「嫌なんです」
「お好みによるので、無理にとはいえませんね」
ひととおり見てから、亜希がいう。
「アレキサンドライトのイアリングなんて、ありませんよね」
「うーん、それは難しいなぁ。考えたこともなかった」
腕を組む南。
「ご存じでしょうけど、とにかく数の少ない石ですからね。それを、大きさと形と
色合いが同じものを二つ揃えるわけでしょう。見つけるのが大変ですよ。もし、
仮にあったとしても、別々の指輪にされてしまうでしょうね」
「ですよね。わかってはいるんですけど」
「どうしてもご所望でしたら、お探ししますよ。ルース(裸石)でなくても、指輪を
見つけて作り直す手もありますし」
「いえ、そこまでしなくていいです」
南は、にこにこという。
「でも、きれいだろうな。アレキサンドライトのイアリングか」
端で聞いていた女性スタッフが口をはさむ。
「変色効果を自分で見られないのはつまらないんじゃないかしら。それに、
イアリングだと落とすのが怖いわ。高価なアレキサンドライトだなんて」
「いやあ、普段はつけずにいて、ここぞという時にだけ、するとか」
「指輪の他にもペンダントやブローチ、ブレスレットまで作ったら一財産
ですよね。アレキサンドライト自体、ひとつ持っていたらすごいものなのに」
手すきだったスタッフたちも集まってきて、時ならぬアレキサンドライト談義と
なった。
4 タカノフルーツパーラー＆フルーツバー
新しくできたばかりのタカノフルーツパーラー＆フルーツバー新宿NOWAビル店で、
渡と亜希が休んでいる。フルーツバーのバイキングではなく、パーラーで絞りたての
フレッシュジュースを飲んでいる。
「あの店は、いたってまともな表街道を歩いているんだよ。うちの夜間営業とは、
一切関係なしだ。俺もあそこでは普通の客でね」
「そういうつながりのあるお店も、持ってらっしゃるんですね」
「ああ。物を見る目を養うためにね。あと、話し好きな店長だから、聞けばいろいろ
教えてくれるよ。行くと楽しいね」
「そういえば、香栄草ってなんでしょう」
「梅のことだよ。社長が梅田さんだから」
「あら」
なんとなく、ほんわりした顔になる亜希。
「寒さに耐えて、春を一番に告げる花ですね」
「うん」といってから、「ところでね」と切り出す渡。
「アレキサンドライトは合成もあるじゃない。成分が違うから別の宝石扱いだけど。
そっちにあたらないの?」
「天然の方がいいです」
ふう、と天井を仰ぐ渡。
「ダイヤモンドも、合成が成功したあと、かえって天然の価値が高まったしなあ。
例外は真珠くらいか。養殖が天然に匹敵してるものって」
「真珠は、むしろ養殖の方がいいんじゃありませんでしたっけ」
「粒が揃うからね。環境を整えるから、品質がいいし。育てるのに、相当神経を
使うけど」
伝票を持って渡は立ち上がった。
「今日は全部出させてもらうからね」
あとからついていく亜希が、ひとりごと。
「天然物がどうしても見つからないっていうことになったら、やっぱり「結婚する
べきじゃない」っていうこと?」
5 ステーショナリーショップ
縞々トラネコのポストカードブックを、亜希が見つけた。
「なんだか、ユーモラスでかわいい」
ミシン目に跡をつけないように気をつけながら、ページをめくる。スケートをする猫、
ビリヤードの玉で遊ぶ猫、眠れずに羊を数える猫など、同じ縞猫が色々なことを
している。縞々トラネコ集団が海水浴をしているものもある。
「ビー・ハップ・クリバンの猫だね」
途中からのぞき込んだ渡がいう。
「「プレイボーイ」誌に30年以上定期寄稿していた人だよ。漫画家でヒューモリストで
イラストレーター。一般に一番知られているのは、縞々トラネコの本の作者として
だね。世界中の猫好きのベストセラーだ。キャラクター商品も多いね」
「そうなんですか」
「ユーモア漫画の世界では古典かな。故人だけど、未だにファンは多いよ」
ホールドアップされて懐の中(?)を引っ繰り返されている猫を見て二人で笑う。「俺は
これも好きだな」と渡が時計を分解している猫を指す。「私は、これ」と亜希がロウソク
1本を灯したテーブルでスパゲッティを食べている猫を示す。ひとしきり見たあと、亜希は
同じものを2冊、手にとった。
「保存用と実用向けと、1つずつね。自分で買いますから」
軽い口調で渡がいった。
「雨田光弘さんのも、たっぷり買ったみたいだったけど、そんなに送る先がある?」
ズキン・・・という亜希の胸の音が聞こえたような気がした。蒼白になっている。
渡は息を呑んだ。
「亜希・・・ちゃん?」
呼びかけられたのが耳に入っていない風の亜希。震えを抑えた声でいう。
「絵を買う代わりに、ポストカードを買うこともありますよ。お値段と、保管場所の
都合もあるから」
それじゃ、行ってきますと亜希は渡に背を向けた。レジへと向かう。取り残された
渡も蒼い顔をしていた。
「俺・・・そんなに悪いことをいったか? だったら、ごめん。ごめんよ」
6 スカイレストラン 「トップハット」
新宿野村ビル50階。ホテルオークラ グループ レストラン「トップハット」。地上200
メートル、晴れた日には富士山を見ることができる景観を誇るが、あいにく、再び
降りだした雨で視界はよくなかった。それでも気は心で、渡と亜希は窓際の席に
座って早めの夕食をとっていた。イギリス風インテリアの、落ちついた気品のある
空間である。
「地下街で遊んでいて、濡れなかったのは幸いだったね」
「そうですね」
ポストカードを買って渡のところに戻ってきた亜希の顔色は、普通に戻っていて、
何もなかったように次の店に行こうといったのだった。息を飲んで彼女を待って
いた渡は、見事な肩透かしをくった。亜希が自制力に富んでいるのか、単に
気分屋なのか、正直いって、渡にはわからなくなっていた。
「どっちに転んでも、お姫さまらしいよな」
「何がですか?」
もう、笑うしかないという顔で亜希が尋ねる。
「いや、なんでもない」
とどこおりなく食事が済み、二人は店をでた。腕時計を見ながら渡がいう。
「時間はあるけど、雨がすごいな。グラデーションはさほど遠くないところに
あるけど、どうする?」
「やめておきましょう。おとなしく帰ります」
「そう?」
ほっとしながら渡がいう。「また天気のいい時に、トップハットと込みで出直そうか」
という言葉が喉から出かかり、抑える。亜希は店の前に置かれているパンフレットを
めくっていた。
「レストラン ウェディングも、やってるんですね」
着席式、立食式、両方の案内が載っている。
渡が疲れているのならアレキサンドライトまで跳ぼうかという亜希の申し出を断って、
結局二人は電車で帰った。
7 翌日 アレキサンドライト店内
昨晩たっぷりと降ったせいか、空には雲がなかった。
開店と同時に紫陽花の鉢を両手に下げた黒沢が入ってきた。
「おっはよーございまーす。亜希ちゃーん、一日遅れで、お誕生日おめでとっ」
「おはようございます」
カウンターでスパゲッティをゆでる準備をしながら渡がいう。
「おはようございます、黒沢さん。ほんとに持ってきてくださったんですか」
典型的メイドスタイルの亜希が驚いている。
「だって、お花がいいんでしょ。紫陽花だったら、ブーケみたいだし。額の部分
だけど、花に見えるから許してね」
「赤の鉢と青の鉢と、ありがとうございます、黒沢さん」
「なーに、えへへ。あと、もうひとつね」
リンツのチョコレートを差し出す。
「甘い物が苦手だったら、ごめんね。リサーチ不足だね、おいら」
「チョコレートは好きです。これも、嬉しい」
「よかったよかった」
背中に回していたカメラを前に持ってくる。
「ついでに誕生日の記念写真なんて、いかが? 亜希ちゃん」
「黒沢さんっ !」
渡が怒鳴る。
「下心もあるけど親切心もあるんだよお。悪用はしないよん。あとは亜希ちゃん次第、
ねっ」
亜希はくすくす笑っている。渡が言葉を探していると、ドアが開いて、また一人入って
きた。
「おはようございます」
瑠璃色のブレザーを着た20代半ばに見える青年だった。
「お兄さま」
「啓二さん、おはようございます」
ひきつりながら渡がいった。
「亜希ちゃんのお兄さん? はじめまして、おいら黒沢といいます」
「はじめまして」
「失礼ながら、話に聞いてる年齢と容姿が合わないんですけど」
「若く見える家系なんですよ」
「だからって、どうして奥さんまで・・・」
黒沢の言葉が聞こえないふりをする啓二。
亜希が啓二に写真の話をする。目顔で相談する兄妹。啓二がいう。
「それじゃあ、黒沢さん、僕も一緒にお願いします」
「ええっ、いいの? 駄目もとで用意してきたのに」
「そのかわり、門外不出ですよ」
渡が絶句している目の前で、黒沢がコンタックスにコダックのフィルムを
装填する。亜希がにっこりという。
「渡さんも、撮りましょうよ」
ガスの火を止めてからレジのところに行く。「オーロラたちの饗宴」をバックに、
亜希を挟んで啓二と渡が両側に立った。「ちょっと待って」と黒沢にいってから、
渡は啓二に尋ねた。
「いいんですか? 写真なんか撮って」
「僕たちにも、考えがあってね」
にこりと啓二が答える。
黒沢の「はい、チーズ」に合わせて、3人がレンズに笑顔を向けた。
第3話(前半)終わり
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