10 ニ日後 アレキサンドライト店内
ガーリックトーストを食べながら、黒沢が背中の金城に声をかける。
「金城さんっ、聞いたよんっ。燈子ちゃんからチョコもらったって?」
「どこから聞いたんですか」
「燈子ちゃんから藍ちゃん経由で、おいらの耳に届きました。夕べねっ」
「耳のお早いことですね」
「4年後が楽しみなんじゃない? 金城さん」
「私はそんなに気が長くありません」
「あっそ。真子ちゃーん、コーヒーもう1杯、ちょーだい」
「はい」
真子が3杯目を運ぶ。
「どうぞ」
「あんがとっ」
「そういう黒沢さんは、いかがでしたかな、バレンタインデー」
「お仕事半分、デート半分かにゃ」
「ほう?」
「編集さんに渡す前の原稿、藍ちゃんにグラデーションで読んでもらって、
ビシバシいってもらったのがおととい。いわれたところを直して、読み直し
てもらったのが夕べだよん。下手な編集さんより、ずっと的確なこといって
くれるんだもんね」
「秘書状態ですか」
「読者さん。ちなみに、チョコ、もらってません。いいけど、さっ」
「面白い関係かもしれませんな」
「原稿読むの、いっそ、お仕事にしてもらおっかなー。スケジュール調整とか
も、さっ」
真子が口をはさむ。
「年度替わりを機にコンパニオンをやめるそうですから、よかったら、本当に
検討してやっていただけませんか」
「へっ、それ聞いてないや。おいら、マジでスカウトしよっかな。真子ちゃん、
情報あんがと、ねっ」
連れ立って出ていく黒沢と金城。
「藍ちゃんと黒沢さんか。雰囲気がいいの? 真子ちゃん」
「私には、藍も黒沢さんも、いいお友だち感覚に見えますね。恋愛の方向には、
行かないんじゃないかと思いますけど」
「ふうん。それはそれで、いい傾向だね。最初、大変だったから」
「むしろ私が気にかかるのは燈子の方です」
「金城さんの件? まさかあ」
「女の子が大人になるのって、早いんですよ」
ドアを開けてSILVER EYEが入ってきた。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
いつもの席で、いつものように紅茶を頼むSILVER EYE。真子がポットを運ん
でいくと、SILVER EYEが小さな包みを渡す。
「真子さん、頼まれてた物」
「はい」
受け取る真子。ウエイトレスモードの笑顔と微妙に違う。
「使えば、僕にはわかりますから。様子は見てますよ。危なそうだったら行き
ます」
うなづく真子。
赤井は見てみぬふり、聞こえぬふりをしていた。


11 同日夕方 真子の部屋
早退した真子が、SILVER EYEから受け取った包みを開けている。額に入っ
た油絵が一枚。ハガキほどの大きさで、白い芙蓉の花が描かれている。
「SILVER EYEさん、8月のホープダイヤの件をモチーフにするっていってたの
に」
白いカーディガン姿で首を傾げている真子。
「何がSILVER EYEさんの目に写っていたの? ・・・でも、いいの。お願いしたら、
描いてくれたものだから」
微笑んで額を撫ぜる。
机の上に絵を立て、玄関から靴を持ってくる。ベッドの上の毛布をひっぱっ
てくる。新聞の広告の上で靴を履き、毛布を抱える。髪をおろし、ひと呼吸
してから絵を覗き込む。
「これもマウストラップっていうのかしら」
絵に吸い込まれるというより、迎え入れられるように入っていく真子。


12 同時刻 SILVER EYEのアトリエ
SILVER EYEが絵筆を握ってキャンバスに向かっている。と、その手を止めて
宙に目を泳がせる。
「マウストラップ・・・来た。この場合、ラビット・ガーデンとでも呼んだ方がいい
かな。真子さん、いらっしゃい」


13 同時刻 燈子の部屋
燈子の元に藍が来ている。燈子の机の椅子に腰かけている藍。ベッドのふち
に腰をおろしている燈子。いたって真面目な表情で膝を突き合わせている。
「藍お姉ちゃん、私にも付き合えって?」
ひきつり気味の燈子。
「そう」
「いまさらぁ?」
「しないより、まし・・・の、はず」
「正直にいって、プレッシャー感じるけど」
「私もよっ」
「二人で?」
「無理を承知で珠子姉さんにも、声かける。翔さん込みでも、いいわ」
「でもぉ」
「でももストもないの。このままだと、真子姉さん、つぶれるかもしれない」
「それは嫌」
「そういうことで、今度、お見舞いにいきましょう」
「私のこと、わかるのかな」
「わからなきゃ、おいおいわかってもらうってことで。向こうにはちゃんと専門
家もいるしね。やってやるわよっ。協力、よろしくね。あなただって、あの人
の娘でしょう」
「そうですっ。うーっ、逃げられない」
「話が済んだから帰るわ。叔母さんによろしくいっといてね。日取りは、また
決めましょ」
さっさと帰りじたくを始める藍。
「ごはん、食べていかないの?」
「いらない。途中で何とかするからいいわ」
「どこか、いくの?」
「一歩踏み出したから、どっかの、おせっかいで、きびしめで、そのくせ優しい
作家さんと祝杯でもあげるわ。きっと、詳しいことは聞かずに乾杯に乗ってく
れる」
「彼氏でもできたの?」
「違うと思う」


14 絵の迷宮内
真子が毛布をにくるまって膝を抱えている。冬山遭難でビバークしているよう
な雰囲気。モノクロの繭のような空間の中にいる。後ろの壁にもたれ、なんと
なく、前方を見ている真子。
すっ、と繭を通過してSILVER EYEが姿を現した。真子に合わせるように、彼
にも色彩がない。目を上げてSILVER EYEを見る真子。無表情。
「具合は、どうです?」
「・・・・・・」
「まあ、聞かなくても、わかりますよ・・・。ずいぶん、きつそうだ。それで、来て
みましたけど」
「・・・・・・SILVER EYEさん」
「無理にしゃべらなくていいですよ」
真子の隣に腰を降ろすSILVER EYE。
「藍に聞いていた迷宮の様子と・・・違いますね」
ぽつん、という真子。
「迷宮の構成は自在に変えられますから。刺激が少ない方がいいかと思って」
「繭の中ですものね」
ふっと笑う真子。
「好きなだけ籠もっていられるから、冬眠でも、しそう」
「マウストラップの元々の使い道は、ちょうど、こういうものなんですよ」
真子と視線を合わせず、静かに話すSILVER EYE。繭の中に声がしみわたる。
「心身ともにつらい時のシェルター代わりなんです。どちらか一方がきつい時
にも使います。自分で、閉じたい感覚を決めて、もぐり込むんですよ。それで休
息して、回復したら、出ていく。国では、誰でも使える技なんです。僕が特殊なわ
けじゃない。・・・絵を媒体にするのは僕だけですが・・・すべての基本技なんです
けど、こちらに来た時は攻撃にも転用されます。人間用にね」
「基本の回復技が、私たちにとってはものすごい攻撃技ですか」
「人って、僕たちの側からみると随分弱いですから」
「軽蔑します? 哀れみます?」
「いいえ、別に。どちらでもありませんよ。変ですよね。元は同じだったはず
なのに、どこで分かれてしまったんだろう」
「どこででしょうね」
「それはともかく・・・」
真子の頬に手を当てるSILVER EYE。
「寒いですか? 温度感覚も遮断してますけど」
「何となく、気分的に」
「そう・・・。無理してたんだ」
ゆっくり髪を撫ぜる。
「マスターにも、空元気で返事をしてるし」
「アメジスト狙いの晩ですか」
「そうですよ」
「仕事が好きなのは、ほんとです」
「それはわかってますけどね」
手を離し、にこっと微笑む。SILVER EYEの目がうっすらと銀色に染まる。
「・・・・・・」
首を傾げる真子。
「レモンとマンダリンの・・・香り?」
「嗅覚は戻しました」
SILVER EYEの姿に、少しずつ色がついていく。
「感覚を遮断しすぎて、真子さんが壊れたら困ります。それで、ジュルビ
アンでもよかったんですけどね、僕のわがままで、アビルージュです」
繭の中に貴族的でさわやかな香りが満ちていく。アビルージュのトップ
ノート。いつの間にかSILVER EYEの上着が緋色になっている。
「ご主人が旅行から帰ってくるのは、今晩?」
「ええ。2日前、ケーキをつまんで朝から梅の写真を撮りにいって、今日
中には戻ります。お医者さまのアドバイスで、好きなことをしてリラックス
すれば眠れるんじゃないかっていわれまして」
「そうですか・・・。梅の香りに対抗させてもらいます。移り香で家庭争議
にはなりませんよね」
「香水に男性用があるのは知っていても、そこまで考えません、きっと」
「騒動が起こって欲しいと、まったく思わないわけでもありませんけど・・・」
苦笑するSILVER EYE。ゆっくりと立ち上がる。
「真子さんが、いろいろな感覚を受け入れられるようになるのに合わせて、
状況が変わるようにしてあります。普通の情景になったら、その気になれ
ば帰れますよ。もうしばらく、いてください」
「そこまで、できるんですか」
「マウストラップは、得意技です。それに、真子さん用のですし」
品よく微笑むSILVER EYE。
「急ぎの仕事があるから、これで、ごめんなさい。状況はわかりますよ」
「これを作るのに、ほかのことにしわ寄せがいったんでしょう、SILVER
EYEさん。ごめ・・・ありがとう」
「いまさら」
真子の自然な笑顔にSILVER EYEも笑いを返す。
「それじゃ」
「お仕事、がんばってくださいね」
真子を見ながら後退りで消えるSILVER EYE。
残された真子はそおっと呼吸をする。少しずつ体に色が戻っていき、頬の
色もよくなっていく。深みのある樹木の香りにラベンダーやバニラの香りが
混ざっていく。
毛布をたたみ、足元に置く。リラックスした表情で目を閉じる。うつらうつ
らしている間に、背中の壁は木の幹に、地面は土に、周囲は緑に変わっ
ていく。白いカーディガンに緑が映える。少し離れたところに野ばらが咲い
ている。川のせせらぎ、風が髪をゆらし、1枚の絵のよう。樹木の香りにム
スクも混ざり、苦みが加わる。日の当たる庭で、うさぎが日なたぼっこしな
がら眠っている。


第11話(後) 終わり

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